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『マティアス&マキシム』「孤独」の共有

9/25 ヒューマントラストシネマ有楽町

『マティアス&マキシム』はグザヴィエ・ドラン監督が前作『ジョン・F・ドノヴァンの死と生』をアメリカに渡って撮ったのとは対照的に、故郷ケベックに戻り、地元の友人に出てもらいながら撮ったミニマムな作品だ。場所やジャンルを転じることはあれど、彼の描いているものと表現それ自体は常に一貫している。

グザヴィエ・ドラン作品の一貫したテーマ。それは「自分を受け入れてほしい」という圧倒的な「孤独」だ。母との関係性から生じる「孤独」、自分の性的嗜好から生じる「孤独」、田舎の閉塞的な環境が生む「孤独」……。「孤独」に悩むのは主人公だけではない。母親、恋人、友人、映画に登場するほぼ全員が「孤独」に悩まされている。

ドランは、「孤独」が満たされた瞬間、再び「孤独」に陥る瞬間を、映画にしか出来ない表現で表す。『マミー』では主人公の心が解放される瞬間を画面のアスペクト比を主人公が押し広げる演出で表す。そして主人公が再び殻に瞬間をアスペクト比が再び縮まることで表す。『わたしはロランス』ではロランスの心の高ぶりを音楽が代弁し、読んでいる手紙の文章が画面いっぱいに表示され、洗濯物が空から降ってきたりもする。今作でもマティアスとマキシムが罰ゲームで映画撮影の中でキスした際の二人の心の揺らぎを風がブランコを激しく揺らす演出で表現する

ドランの作品における「映画」とは、登場人物の心情をそのまま映し出す「鏡」だ。人物の感情がそのままの形で映画に映し出される。そこには一切の飾り気がない。あまりにもストレートに表現するが故に、時に突飛に感じられたり、抽象的と感じられたりもするが、その「不器用な素直さ」もまた彼の作品の魅力でもある。彼の作品には作為がない。それが観客の心を震わす。その素直さでウソのない表現は強烈なエモーションを喚起し、観客と登場人物の間に一気に共感を生じて見せる。

ドランの作品の人物は皆孤独だ。しかし、我々は映画という「鏡」に映し出される彼らの心の揺さぶりに強く共鳴し、彼らの「孤独」を共有することができる。「他の人にはわからないかもしれないけど、僕には君の気持がわかる」。共感とは映画の持つ圧倒的な役割の一つではないだろうか。

近年、LGBTを扱った映画が増えてきているが、その最先端をひた走る彼の仕事ぶりに今後も目を離せない。これからも多くの「鏡」を作り出していってほしい。