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 私にしか見えない蟲がいる。今までに三度だけ見たことがある。

 奴の種類は毎回違う。


 最初に見たのは中学2年生のときだった。その日、母親と服屋で綺麗な形をしたベージュのパンツを見ていたら、店員さんが色違いの紺色もあるんですよ、と話しかけてきた。奥から出してきましょうか、試着してみます?と。濃い色の方が好きだったから、お願いしますと答えた。

 店員さんはすぐに紺色のパンツを腕にかけて持ってきてくれた。しかし、そのパンツには、あたかもブローチのように、艶々とした黒い大きな蟲が付いていた。どう見てもでかいゴキブリが付いているのに、店員さんも母親もまるで気付いていない。あまりに二人が平然としているものだから、本当にそういう飾りかと思ったほとだ。お前らの目は節穴か?と訊きたかったが、内向的で騒ぎ立てるのがあまり好きではない私は、何食わぬ顔でゴキブリが付いたパンツを受け取り試着室に入った。

 よく見れば見るほど、しっかりゴキブリである。じっとしている。ただ、触覚だけはほのかに動いているから、やっぱり飾りなどではなく、本物のゴキブリである。ゴキブリを払う勇気もゴキブリが付いたパンツを履いてみる勇気もなかった私は、ゴキブリがいる面を内側に畳み込み、1分ほど試着室で瞑想してから外に出た。あんまり似合わなかったので辞めておきます、と言って店員さんにパンツを返した。ゴキブリと共に。あんなに大きいゴキブリに、何故私以外誰も気付かなかったのか不思議だった。


 二度目は大学一年生のときだ。一人暮らしを始め家族の目が無くなった私は、「お菓子を思う存分食べてみたい」という甘党の子どもが一度は夢見ることを実行に移しまくり、無茶苦茶な食生活を送っていた。

 その日は、どうしてもアップルパイが食べたい衝動に駆られ、大学帰りに近所のアップルパイ専門店にアップルパイを買いに行った。初めて入る店だった。2〜3人の中年女性がショーケースの前に並んで、アップルパイを選んでいる。そこそこ繁盛している店のようだった。

 私も列に加わり、どれにしようかとショーケースを眺めていると、視界の隅を黒いものがチラチラと動く。蝿だった。そこそこ大きいやつ。その蝿は、ショーケースの中を傍若無人に飛び回り終いにはアップルパイに止まりさえしている。

 飲食店のキッチンにはハエ叩きが装備されているものだし、実際どこから湧いてくるのかハエ叩きが蝿叩きとして使われる場面は多い。しかし、ショーケースの中にまで入っているところはそのとき初めて見た。蝿いるじゃ〜ん…と思ったが、店員さんはニコニコしながら注文されたアップルパイを取り出しているし、私と同じようにショーケースを眺めているおばさま方も特に何か言うこともなく、アップルパイを買っていく。目の前でさっきまで蝿が止まっていたアップルパイを。

 わけがわからなかった。何も見えていないのか?何も見ていないのか?

 私は店を出ることもアップルパイを買うこともできず、サイドメニューのソフトクリームを買った。


 三度目はつい先程。休職して実家で自堕落に過ごしている日曜日、午前中出かけていた両親が昼ごはんに近所のパン屋でパンを買ってきてくれた。サンドイッチを3つと砂糖の揚げパン1つときなこの揚げパン1つの、3人分の昼ごはん。サンドイッチを食べ終わると、母が揚げパンを切ってくれた。

 砂糖の揚げパンが好きな父には砂糖の揚げパンの3分の2を与え、残る3分の1は母が。きなこの3分の2を私がもらい、残る3分の1を母が取った。きなこや砂糖が落ちるからと、初めに入っていた紙袋ごと、3分の2になった揚げパンを受け取った。

 紙袋を開き、揚げパンを取り出そうとすると、紙袋の底に黒いものが見えた。アメンボを少し小さくしたような形状の、2センチ弱くらいあるよくわからん羽虫。さっき袋を開いた母は気付かなかったのだろうか?

 何かいるんだけど!と騒ぎ立てるのは容易い。しかし、そう指摘したところでどうなる。母はギョッとした顔をするだろうし、父は少し怒ったような口調で大丈夫だよと言うだろう。私は、母のギョッとした顔が苦手だし、不機嫌そうにしか話せない父の喋り方も苦手だ。わざわざ苦手なことを自ら呼び寄せる必要はない。

 何より、さっきまで蟲が付いていた揚げパンを食べなければならないとき、そのことに自分だけが気付いているならば、ちょっと気持ち悪い気もするけれど仕方がない、と割り切って食べることができるが、目の前にいる他人にそれを知られた上で食べることには、更に別の苦痛が伴う。そんな自意識を抱いて生きている。

 仮に、袋に虫が入っていた揚げパンなんて食べずに捨ててもいいよ、と親が言ってくれたとしても、うちの娘にはきなこかなと選んで買ってきてくれた揚げパンを、まるまる3分の2の揚げパンを、一口も食べず捨てることなんて私にはできない。自身の衛生観念と照らし合わせても、何か分泌してそうな蟲が付いた果物なんかは食べることはできないが、カラッとした見た目のよくわからん羽虫が付いたパンならば、食べられないということもない。

 というわけで、食べた。蟲と一緒に紙袋に入っていた揚げパンを。

 袋から揚げパンを取り出し皿に移すと、中の蟲が出てこないよう丁寧に紙袋を畳んだ。底に蟲が閉じ込められるように。蟲がいたことに、私以外の誰も気が付かないように。

 揚げパンを食べている最中、蟲が飛ぼうとして紙に当たるパラパラとした音が煩かった。


 蟲は、私にしか見えていないのだろうか。考えられる可能性を挙げてみる。

1. 本当は存在しないものを私の脳が存在すると勘違いしている
2. 蟲はきちんと存在しているが、みんな目が悪く気付いていない
3. みんな気付いてはいるが、面倒を避ける等私と同様の理由から言わない
4. 蟲がいることなど当然すぎて言うに及ばない

 4.が、一番怖い。田舎のトイレの網戸ならともかく、服屋やショーケースやパン屋の袋の中に蟲がいることって、当然のことではないよね?そう思うのは、私だけだったりするのだろうか。少し、自信がなくなってきた。


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