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歴史と神話の世界を巡る旅③:日本最古の寺・向原寺

こんにちは!時代は鰻丼ではなくてサメ丼だろうと思っている鮫サメ子でございます🦈🦈

古代の女王が眠る丘を後にした私は、桜井市から明日香村まで30分ほどバイクを飛ばして行きました。

日本最古の寺院と言えば、飛鳥寺が有名ですが、実はその近くにもっと古い寺院があるということをご存知でしょうか?それが明日香村にある向原寺(こうげんじ)です。この寺院は飛鳥寺よりも早く建立されたとされます。今回は、この歴史的な寺院について紹介します。

向原寺:日本最古の寺院

飛鳥時代にタイムスリップした気分になれるお寺、それが向原寺です。『日本書紀』によれば、552年に百済から献上された仏像を、蘇我稲目が小墾田の家に安置し、その後向原の家を寺としたとあります。これが日本で最初に仏像を祀った場所、つまり寺院になるのです。

日本最古の寺院として有名な飛鳥寺は596年に建立されましたから、実に40年以上前に向原寺は建てられたのです。ちなみに飛鳥寺は、日本最古の仏像である飛鳥大仏を安置していることや、日本最古の本格的な仏教寺院の伽藍配置を持っていることから、日本最古の寺とされます。つまり私達が頭の中でイメージする「お寺」の最古は飛鳥寺になるという訳です。

日本最古の仏像:飛鳥大仏

話は向原寺に戻しましょう。その後、疫病が流行した際、原因は仏教崇拝によるという理由で物部氏により仏像は難波の堀江に捨てられ、寺は焼き払われたと言われています。

向原寺の外観

推古天皇が即位した豊浦宮や日本最古の尼寺である豊浦寺がこの場所に建てられました。しかし、平安時代には衰退してしまい、現在は浄土真宗本願寺派の向原寺(別名広厳寺)がその後を引き継いでいます。

向原寺の周辺には豊浦寺の遺構が残っており、発掘調査で塔や金堂や講堂の跡が検出されています。豊浦寺は由緒ある寺院でしたが、今はその面影を探すのが難しいですね。

お寺の入り口の門には、「日本仏法根元寺院最初」と書かれた看板があります。これは、ここが日本で最初に仏教を受け入れた場所だということを示しています。境内に入ると、江戸時代から続く浄土真宗本願寺派のお寺が迎えてくれます。境内はあまり広くなく、とても小さなお寺のようにも思えます。

向原寺周辺を散策すると、歴史の息吹が感じられる史跡がちらほらと目に留まります。そんな史跡の数々から、2つご紹介しましょう

難波池

まず1つ目は、難波池です。その大きさは意外と小さく、家庭用プールより一回り大きい程度です。

難波池は、仏教伝来の際に廃仏派の物部尾輿が百済から贈られた向原寺に安置されていた金銅の釈迦仏像を投げ込んだと伝えられる場所です。この仏像は後に本田善光によって引き上げられて信濃国(現在の長野県)に運ばれ、善光寺の秘仏として祀られているとされています。

つまり向原寺の仏像が「難波の堀江に捨てられた」という話は、この「難波の堀江」は大阪の難波ではなく、ここのことだったのです。大阪には難波と堀江という地名が両方とも存在していることから、つい勘違いしてしまいました💦

伎楽伝来地の石碑

そして2つ目は”伎楽伝来地の石碑です。
伎楽(ぎがく)とは、日本最古の渡来芸であり、中国から伝わった大きな仮面をつけて演じられる台詞の全くない無言劇です。日本書紀によれば、推古天皇の時代に百済人の味摩之が呉の国で学んだ伎楽儛を日本に持ち込んだとされています。伎楽は仏教の教えを庶民に広めるためのツールとして使われました。

伎楽は行道という一種のパレードと、滑稽味をおびた無言劇で構成されます。無言劇には呉王、金剛、迦楼羅、崑崙、力士、波羅門、大孤、酔胡などの登場人物があり、仮面をつけて舞やパントマイムで物語を表現します。笛や鼓などの楽器が伴奏します。伎楽は奈良時代に寺院や朝廷で盛んに上演されましたが、平安時代以降は雅楽の伝来により衰退しました。現在では伎楽面や楽譜が残っています。

そんな伎楽が伝来した地が向原寺近くにあります、韓国の李應壽教授が2010年に新たに比定したもので、向原寺の南にある難波池の傍らに石碑が建っています。李教授は、日本書紀に記された桜井という地名が、実は明日香村豊浦のことだと主張しています。

ただし、この説には賛否両論があり、桜井市にも伎楽伝来の地とされる土舞台があります。どちらが正しいかはまだ結論が出ていないようです。

さて、日本最古のお寺を後にして、歴史探訪の旅もそろそろ終盤に差し掛かりました。次なる目的地は、亀石です。明日香村は数多くの謎に包まれた巨石が点在していますが、その中でも特に有名な亀石をご紹介しましょう

亀石:謎の巨石

亀石という不思議な遺跡について、ご存知でしょうか?亀石は、明日香村川原にあります。周囲は田園風景が広がり、隣は古いお土産屋さんがあるだけです。亀石の近くには、天武・持統天皇陵や橘寺などの史跡もあります。亀石から少し離れた場所には、飛鳥宮跡や高松塚古墳など、飛鳥時代の歴史を感じさせる遺跡が多数存在します。

この神秘的な花崗岩の巨石には、その名の通り亀のような彫刻が施されていますが、実はカエルだったという説もあります。面白いことに、当初は北を向いていた亀石は、その後東を向き、現在は南西を向いているのです。ちなみに、もし西を向くことになれば、大和地方が泥の海に変わるという伝説もあります。亀石の建造時期や目的については謎が多く、仏教が伝わる前の土着信仰の対象であったり、川原寺の所領を示す石標であったという説もあります。

しかし、その中で私が最もユニークで興味深いと思った説は「亀石が実は未完成の像で、元々はグリフィン像を作ろうとした」とされるものです。グリフィンは、鷲の頭と翼、獅子の胴体と尾を持つ伝説の生き物で、古代ペルシャやギリシャで信仰されていました。亀石の顔が、三角形で目が上に飛び出していることや、背中に格子状の溝があることなどからまさにグリフィンの特徴が見られると言われています。

グリフォン—ヨンストン『鳥獣虫魚図譜』(オランダ訳、1660年)

また、亀石が造られた場所は川原寺の敷地内であり、同寺は斉明天皇が建立した寺院だったと考えられています。斉明天皇はペルシアやギリシアなどの文化(西方文化)に傾倒しており、西方文化積極的に取り入れた蘇我一族の力を借り、グリフィンの像を造ろうとしたというのです。しかし、645年の乙巳の変で蘇我氏が滅亡したことで、グリフィン像の製作も中断されてしまいました。その未完成の像が現在の亀石になるのです。

つまり、亀石は日本が古代ペルシアとシルクロードを通じてペルシアの影響を受けた文化や品物が伝わった遺跡のひとつだというのです。

この興味深い説を提唱したのは、なんとミステリー作家の松本清張。確かな証拠はありませんが、彼らしい独創的な説であることは間違いありません。

飛鳥時代の石造物の中でも謎が多い亀石。この物語を聞いて、あなたも亀石の魅力に引き込まれたのではないでしょうか?


古代の歴史と文化に触れ、感動に満ちた私は再びバイクに跨り、神戸へと戻ることにしました。神戸の街並みが近づくにつれ、古代の世界から現代の喧騒へと戻る感覚に、新たな興奮が走ったのでございます🏍

さて、3回に渡って紹介した私の旅行記もこれで終わりです。また旅行の機会があれば、ぜひnoteで報告させていただきます。次の旅でお会いしましょう!

それでは皆様、シャークとともにあれ(May the Shark be with you)🦈🦈




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