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多様性を尊重する

 私は、大学と大学院で心理学を専攻していた。研究テーマは「創造性」だった。ここで創造性とは、「新しくて価値のあるものを生み出す性質」と考えてほしい。研究は、どうすれば人間は、このような創造的なアイディアを生み出すことができるのか、という問題意識からだった。そもそもの発端は、心理学においては「否定的な側面」「特殊な人」についての研究が多いことに対する反発だ。様々な文献を読み漁るうち、誰かの思想に感化されていたのだろうが、どうして心理学は、犯罪者や精神疾患を抱えた人、天才など、一般の人とは大きく異なる何らかの特徴を持った人ばかりを対象に研究しているのだろうと思っていた。そういった人たちがそれだけ目立つことは理解できたし、対処の緊急性が高いという理由も理解できた。でも、「一般的な人」の「肯定的な側面」だって、同じかそれ以上に研究する価値のあることだと考えていた。同じ様に考えた心理学者たちは多く存在していて、彼らは、「一般の人々」の「肯定的な側面」に対する研究、つまり、なぜ通常の生活を送れる人はそれができるのかを研究する「人間性心理学」という一派を形作った。この一派の研究分野の一つが創造性である。創造性は、一般的な人々の肯定的側面の一つだと考えられたのだ。したがって、創造性は、一部の天才にしか発現しない天性の才能、という捉え方にはならない。一般的な人々であれば誰もが身に付け、体現することができる性質である必要があった。その結果として、この一派の創造性研究においては、創造的な思考が発生しやすい環境や思考法など、人間が意図的に制御できる部分に注目する傾向が強かった。
 私が研究を通して得た知見を簡単にまとめておきたい。それは、創造性は、一種の問題解決であり、どうなれば解決といえるのか、その解決の過程で活用できる時間や材料などの資源はどれだけあるのか、といった、いわば「制約」に着目することが重要である、ということだ。この問題解決には、どのような制約があるのかを意識することで、「何をするべきか」「何をするべきでないか」の枠組みが明確になる。様々なアイディアを試みる際の評価基準が明確になる、ということだ。これは、漠然とアイディアを考えるよりもはるかに効率的だし、効果的である。この内容を一般的な形でまとめ直すと、問題解決を成功させたい場合は、制約、つまりは評価基準を明確にせよ、ということだ。これが私の創造性研究で抽出された結晶だった。
 最近、建築デザインについてのある大学の講義を見学する機会があった。テーマは、植物のように建築を育てることはできるのか、という内容のものだった。語り手の研究者は、植物を、単純な型を複雑に組み合わせることで多様な形を生み出す装置だと捉えていた。細胞の構造、一枚一枚の葉の構造といったミクロの視点では単純に見えるものも、それが複数組み合わり、向きや大きさが変わることで無限の多様性を生み出すことができる、ということだ。なるほど、植物をそのような視点でとらえることはできるだろう。そして、評価基準が多様だからこそ、形も多様になる、と続く。植物は、様々な環境に適応して成長し繁殖していかなければならない。そのため、どのような形、高さ、葉の枚数になってもよいわけではない。気温や湿度、日照時間に合わせて適切に成長することが求められる。そのような意味で、その場所で生きるという課題に対して合理的な解決ができているかどうか、という点で評価基準を設けることができる。この基準に合致していればいるほど、その植物はその場所での生育に適している、と評価することができるのだ。だから植物は、有性生殖によって自分とは異なる遺伝子を残そうとする。遺伝的な多様性を高めることで、より評価基準への合致度が高い子孫を残すことを狙っている。非常に理にかなった、植物の「生存戦略」の説明だった。そして話題は建築へと進む。研究者は、「建築も同じ」だと語る。単純な型の組み合わせで多様な形を生み出すことができ、その形に対する評価基準を多様にすることで、形もより多様になる。植物の説明は、そのまま建築デザインにも当てはめることができた。建築における評価基準は、機能性、肌触り、色合い、費用などが挙げられる。その上で研究者は、もとの型と評価基準をコンピュータに入力すると、あとは「彼」が評価基準を反映させた建築デザインを無数に考えてくれる、と説明する。さらに、考えたデザイン同士の特徴を掛け合わせて「生殖」を行い、遺伝的多様性を拡大させることもできるそうだ。したがって、コンピュータの力を借りれば、建築デザイン自体も成長、生殖、繁殖を行うことができる、というわけだ。そしてここでも、評価基準が重要な観点となっていた。
 多様性の尊重――。いたるところで耳にする言葉だが、教育に携わる仕事を生業としている私にとっては非常に重みがある。みなさんも学校やメディアなどで耳にタコができるほど聞いているだろう。ただ、多様性の尊重を、自主性の尊重に置き換え、その上で放任主義の肯定にすり替える輩がいることに注意してほしい。子どもたちの多様性を尊重したいから、私は子どもたちに何も強制しないんです、という発言は「多様性の尊重」の意味を誤解、曲解している。教育に携わる人間としては怠慢である。多様性を育むためには、「制限がない」という消極的なサポートでは足りない。それでは子どもたちは自由で楽なだけだ。他人との違いを恐れず、自分と向き合い、自分の長所を日々磨いていく。こんな面倒でしんどいことを、自由に放任された子どもが自主的にやるだろうか。これで自主的にやる子どもは、どんな状況でもやるだろう。それでは意味がない。多様性を育むには、後押しが必要だ。私が考える最重要の後押しは、評価基準を多様にすることだ。子どもたちが多様に育ってほしいならば、多様になったそれぞれの良さをきちんと良いものとして評価する基準がなければならない。口では「みんな違ってみんないい」と言いながら、その教師にとっての「いい子ども」の基準が、「成績の良さ」とか「授業への貢献度」のみであれば、それ以外のよさを持った子どもを適切に評価することなどできるはずがない。多様性を育てたいと考える側が、どれだけ多くの「よい子ども」の基準を持っているか、そして、その多様な基準に基づいてどれだけ多くの子どもを「よい」と明確に評価できるか。多様性の尊重が実現するかどうかは、評価基準の側にかかっていると考える。
 この問題は教育現場だけではない。顕著なのは、教育同様に評価が重要な「仕事」だろう。職場での男女平等の実現、多様な性を認めることなどを求める声が強まっている。非常によいこと、大賛成だ。ただ、平等や多様性という言葉を、スタートラインだけ同じにして後は放任、という怠慢的行為にすり替えて対応を完了させる恐れがある。大事なのは、評価基準だ。これまでの男性主体の仕事ぶりに対する評価基準を変えないままで、単純に女性やそれ以外の性別の人の数を増やしたところで、男性以外の人が評価されることは難しい。結局それは、職場の「男性化」を促しているだけであり、平等でも多様性でもない。そんな場所に、創造性も理にかなった生存戦略もありはしない。結局、教育現場でも職場でも、評価する側が変わらないことには、何も変わらないのだ。

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