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私の彼は左利き

 動物が外界を感知するための主要な感覚機能をまとめた表現として「五感」というものがある。見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触れる、の五つだ。高名なドイツの哲学者エマヌエル・カントは、すべての感覚は、空間の中に存在するある事物の刺激を受けることで、時間の中で私たちに生じるものだと考えた。つまり、私たちの感覚はすべて、時間と空間の形式において現れる。「見る」という動作が最も分かりやすいだろう。「私」と同じ空間の、「私」が見える場所を占めて存在しており、その対象物に当たって反射した光が私の網膜に届くことで「見る」という感覚が感知される。そこにはもちろん時間の経過が存在する。この「見る」は近代以降、他の感覚と比べて別格の扱いを受けてきた。建築学の専門家、狩野敏次は著書『居住空間の心身論――「奥」の日本文化』の中で、近代によって「空間」の「均質化」が進むにつれて、「視覚を中心にした身体感覚の制度化がすすんだ」としている。視覚は「ものと空間を対象化」するという特徴があるため、自と他を区別し、他を対象化し、分析し、利用する近代という時代にマッチした感覚だといえる。そのあおりを受けたのが「触覚」だ。「私」が相手に直に接する必要があるため、相手を対象化、分析しにくい。そのため、視覚と比べて本能的で粗野であるとして劣位に置かれてきた。しかし、それはあまりに一面的ではないだろうか。狩野も、「闇」においては視覚優位のせいで「抑圧されていた身体感覚」が「活発化」するとし、「私たちの身体は空間に直接触れ合い」「空間と私たちはひとつに溶けあう」と述べ、「視覚」優位を失った空間における「触覚」の重要性を指摘している。
 触覚における手の役割について考えてみたい。もちろん、「触れる」という動作をする場合に手だけを用いるわけではない。さらにここでの「触覚」は、圧覚、痛覚、温覚、冷覚などを含めた広義の用語だと考えてもらいたい。それでもやはり、手は触覚における最重要のツールである。何かに意図的に触れようとした場合、まずは手を用いようとするはずだ。手のひらや複数の指を用いることで、対象の大きさや形、表面のざらつき、温度や湿度など、非常に多くの情報を得ることができる。目とは違った意味での高感度センサーだといえる。目との比較でいえば、目にはできない芸当もこなせる。それは、こちら側の情報も多く伝えることができる、ということだ。受信器でありながら発信器の役割もこなせる。直に接しているがゆえの芸当だ。「目は口ほどにものを言う」ということわざがあるが、これは視覚優位の近代に毒された発想である。「目」に情報発信機能があるのは間違いないが、それはまぶたや眉、目じりの動きもあわせた伝達であり、眼球自体にそれほどの情報発信機能があるわけではない。そのため、歴史の進み方が違っていれば「手は口ほどにものを言う」ということわざが存在したかもしれない。その点において、技術や熟練度の高低を「上手」「下手」と「手」を使って表現するのは的を射ているのかもしれない。とにかく、手は優秀だ。
 坂口安吾の小説に『握った手』という作品がある。主人公の松夫は、映画館でたまたま隣に座った美人の手を握り、相手がその手を握り返してきたことから、その女性と交際を始める。松夫は、その女性は誰が手を握っても握り返したのではないかと悩む。そこで、大学で気になっている別の女性の手を握ってみる。別の女性は強く拒絶する。さて、この後、どのような展開になると予想するだろうか。松夫はこの出来事により、最初の女性からの愛を真実だと受け止める、という筋はありうる。しかし、そうはならなかった。強く拒絶した別の女性への想いを強くしたのだ。解釈や感想は様々であろうが、作品を通して「手を握る」という行為が松夫の気持ちを変化させた、主に恋心を生じさせたことは間違いない。これは、「触る」という行為がそもそも、自他の区別ができない、相手を対象化できない、という特徴を有しているからだと考えられる。相手を対象化できない以上は、その相手と接している自分を対象化できない。まさに自他が「ひとつに溶けあう」状態である。この場合、相手が感情を持つ生き物であれば、互いの感情を共有することになる。感情の共有に言葉はいらないからだ。そして、共有された感情が接触面から繰り返し送受信される。送受信が繰り返されることで共有された感情が増幅していく。『握った手』は、この効果を描いていたに違いない。事実、手を握られた二人の女性は、ともに松夫への愛情を高めたのだから。ただ、どんな感情が増幅されるかは、二人の関係性次第ではあるが。話を戻そう。このような「触れる」ことの効果は、相手との接触面積が大きければ大きいほどこの効果は大きくなるはずだ。ただ、接触面積の拡大は物理的に、常識的に、難しいことも多い。その点、「手」は、この接触を効率的に行うことができる。腕によって対象との距離を縮めやすく、向きや高低も自在に調節できる。したがって、手とは、情報の送受信をしながら、自他の区別を取り去り、感情を共有し増幅するという役割を果たすことで、私たちの人生に彩りを与えていると考えることができそうだ。
 人間には利き手、というものがある。人間には基本的に右手と左手の2本が存在するため、右利きと左利きの2種類の人間が存在する。利き手の違いは太古から存在したそうで、現在にいたるまで圧倒的に右利きが多い。左利きは10%ほどしかいないそうだ。何の自慢にもならないが、ちなみに私は左利きである。ついでに紹介すると、イギリスで定められた「左利きの日」は私の誕生日である。毎年、私の誕生日には世界中の左利きが自分の利き手に思いを馳せていると思うと、うれしいのか恥ずかしいのかよく分からない気持ちになる。「左利きは大変でしょう」とよく言われる。正直、あまり実感したことはない。冷静に考えれば、包丁、ハサミ、駅の改札など、右利き用に作られているものが多いことはわかる。他にも、これは最近知ったのだが、学校の教室は基本的に、黒板に対して左側に窓があるように設計されている。これは、子どもたちが右手で鉛筆を持ったときの手元を窓からの光で明るくして見やすくするためだそうだ。私個人としては、社会の大多数を占める右利きに向けて配慮するのは当然であろう。生まれてからずっと右利き用の社会で生きているため、特に違和感も不都合もない。逆に、配慮されていない中で淡々と生きている自分を魅力的に感じたり、大半の人とは違うという点にアイデンティティを感じたりと、メリットを感じることの方が多い。スポーツにおいては、左利きというだけで重宝されることもある。ただ、左利きの利点はそれだけではない。「手」は情報の送受信器であり、感情の共有、増幅のための優れたツールでもあった。そうである以上、使い慣れた利き手の方が、そうでない手よりもツールとしての質は高いだろう。お互いが正対した「握手」ではなく、2人が同じ方向を見て並んでいる場合の「手を握る」「手をつなぐ」という場面を想像してほしい。互いがつなぐ手は右手と左手である。右手と右手、左手と左手をつなぐことはない。「手」というツールをお互いが上手に使いたい場合、互いの利き手同士を用いた方がより効果的なはずだ。その意味で、左利きは、右手を使いたい右利きの人に対してスムーズに自分が使いたい左手を差し出すことができる。これは、「手」の役割を最大限に発揮させるという意味で非常に有意義である。私が生まれる10年前にヒットした昭和の名曲に『私の彼は左きき』というものがある。その歌詞に「あなたに合わせてみたいけど 私は右ききすれ違い 意地悪 意地悪なの」とあるのだが、どうにか主人公の女性に伝えたい。それでいいんだよ、と。

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