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隠れキリシタンとカクレキリシタン

今年6月末、ユネスコの世界遺産委員会によって、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が世界遺産に登録された。江戸時代のキリスト教弾圧の中で、信仰を絶やさなかった「潜伏キリシタン」に着目し、彼らが育んだ文化に希少価値があると評価されたのだ。

個人的には、社会的弱者に光を当てた、久々に納得感のある登録であったが、一方で、潜伏キリシタンについては学校の授業レベルしか知らないことに気づき、この本を手に取った。「消された」とか「生月(いきつき)島」とか、想像とは異なる言葉が目に付いたが、とりあえずは読んでみることにした。

加えて言うと、禁教期の信者のことを「潜伏キリシタン」や「隠れキリシタン」、そして「カクレキリシタン」と全てカタカナで書き分けるケースまであるが、以前から、それが何を区別しているのか知りたいと思っていた。

当初は、海外にも伝えやすいように「カクレ」と表記しているのか?というぐらいの理解だったが、その呼び名の違いこそが本の主題であることを、読み進めた先に知った。

本は、長崎県の平戸島の先にある生月島に残るキリスト教信仰を、筆者が現地に赴き聞き取りを始めるところから始まる。そして、生月島の隠れキリシタンは、明治に入り、禁教令が解かれて隠れる必要がなくなってからも、カトリックには帰依せず、独自の信仰を選んだことを知る。長崎の多くの隠れキリシタンは、カトリックに「復活」したのに対してだ。

宗教は、その土地その環境によって様々な変化を辿る。生月島の信仰は、その一形態にすぎないが、それが故に「カクレキリシタン」などと呼ばれ、今回の世界遺産登録にも生月島は構成遺産に入らなかった。

一神教であるキリスト教には不都合な事実があったと著者は分析し、各方面への取材を重ねながら、その詳細を分かりやすく説明している。

事実は常に多面的である。隠れキリシタンとは、命を守る為に、教えに反して踏み絵を踏んだ人々だけを指すのではなく、こうした情緒に訴えるものだけでもない。

「それだけではない何か」を考えることで、今回の世界遺産登録も拍手喝采では終わらない、違った意味合いを知ることができる。

筆者自身もキリシタンだが、視点はニュートラルで好感が持てる。粘り強いインタビューから得られる珠玉の言葉が、ぎゅっと詰まった一冊だ。小学館ノンフィクション大賞受賞作品。

#隠れキリシタン #カクレキリシタン #広野真嗣