新型コロナと日常生活

前回の日記はいつ書いたっけ、と見直したら昨年12月であった。なんと半年以上日記を書いていなかった。そういうものでも日記と言えるかどうかは定かではない。


今がどんな風に回想されるだろうか、と最近よく考える。本当かどうか知らないが、退屈な時間はその時は長く感じられるが、思い出すと(思い出すべき内容が乏しいので)短く感じられるそうである。反対に楽しい時間はその時はあっという間に感じられるが、思い出すときは(充実していたので)長く感じられるのだそうだ。


では今はどうか。私は基本的に仕事しかしていない。遊びにも行っていないので、行動範囲が自宅・職場・最寄りのスーパー・何軒かのコンビニ・何軒かの書店、くらいしかない。仕事はそれなりに忙しく、昨年学校が休校になったのが嘘のようである。



NHKのサイトによると、2020年4月時点での全国の新型コロナウイルス感染者数は、1日500~700人ほどだったようである(たとえば、4月8日には527人)。そして2021年7月29日時点では感染者は10699人である。1年前からしても想像を絶する世界に私たちは今生きている。


この間ずっと思ってきたのは、「いくらなんでも、さすがにそろそろ日本政府は本気になって感染を抑え込もうとするだろう」ということだったが、私の目から見て、政府が本気になっているようにはとても見えない。彼らはオリンピックを開催することばかり考えてきたのではないか。今、彼らが望んだ、日本で医療崩壊が起きようが国民が困窮しようが内閣が倒れようがとにかくやろうとしてきたオリンピックが実際に行われているが、そのあと政府がどうするのかは明らかではない。


「さすがにそろそろ政府は本気になって感染を抑え込もうとするだろう。もう『そのためなら日本がどうなろうと知ったことではない』オリンピックはないのだから」と思ったりもするが、しかし同時に「結局のところ、これまでと同様、その予想も裏切られるだろう」と思いもする。そしておそらく後者の悲観的な予測の方が実現するのだ。


手元に本がないのであいまいな引用になることをお許し願いたいが、伊坂幸太郎さんの小説に「明日死ぬとしたら、生き方が変わるんですか?」「あなたの今の生き方は、どれくらい生きるつもりの生き方なんですか?」という言葉が出てくる。そして私たちが今いるのは、文字通り「明日死ぬかもしれない」世界だ。


よく「死ぬ時にならないと人生の意味は分からない」とか「死ぬ時に後悔しない生き方を」とか言われるが、「死ぬ時」という人生に一度しかないタイミングには、これまでわからなかった何かがわかるような特権的な要素はないのではないかと思う。「よくわからない」と思いながら生き、「よくわからない」ままに死ぬ、ということしか私には想像できない。


人生には「明日から本気出す」も「死ぬ時に後悔しない生き方」もなく、ただただ過ぎていくだけなのだろう。そしてまた次の1日がやってくる。


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