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おわりに【メイキングオブ『ワンダーら』】

長かった…。
関西コミティアが5月12日で、今この文章を書き終えた(メモに書き貯めている)のが5月29日になったところなので、2週間とちょっと…。

これだけ解説があるということは、「マンガとして描き切れていない」という逆説がバッキバキに成立していまっているので(しかもド級に野暮だし)、語義矛盾街道を爆走していて正直辛かった。
が、何度も出てきた『2017』にしても、私はこれまでつくってきた作品すべてでこれだけの解説の文量を書く自信(?)がある。作品だけでどこまで伝わるを度外視して、ひとセンテンスごとに膨大な思いを込めがち。届かなくても込めちゃうのです。

ただ今回は、それにしても特段長くなった。
構想期間の長さもさることながら、解説冒頭で書いた人生観や性自認と結びついた「私自身」を表していること、それから何より、ほとんど初めて「残す/遺すための作品」をつくったことが大きな理由である。
演劇は形に残らない。そのことに意義と魅力を感じていたが、一方私はマンガや音楽をずっと愛していたし、残っているからこそ時間を超えて出会えたものがたくさんあった。『2017』当時に不条理劇にハマれたのだって、それらが「戯曲」という形で長年残されてきたからだった。私も「残るもの」(記憶に、とかじゃなく物理的に)をつくってみたかったのだった。
そうしてつくってみて、掬いきれていないものが気になった。いっそ溢れ落ちたものも残す意味で、この解説を書き始めた。だからこそこれだけの長さを要した。

この『ワンダーら』は、これまで私のつくってきたものの総決算であり、そしてこれからもおそらく付き合い続けるものである。私はものを作るたびに違うテーマを設えるタイプの作家では、おそらくない。そのようなつもりでやってきたが、結局どの作品でも同じことを言っていた気がする。
それは「それ以外のもの」だったり「なにかのための、なにかなどない」だったり「ワンダー構想」だったり。
過去のいろんな作品からシーンを転用できたのはその証左だ。同じことを切り口を変え、解像度を研ぎ澄ましたりぼやかしたりしながら描き続けていく。

以上、お付き合いありがとう。
また。


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