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吉良さんのお別れ会に行ってきました。 ~後編~

先日急逝されたZABADAKの吉良さんのお別れ会に行ってきた話を書こうと思ったら、ZABADAKの思い出が溢れてきて思わず長文になってしまいました。なので、記事を二つに分けることにしました。こちらは後編です。

前編を要約すると、高校生の時に偶然知ったZABADAKにはまり、大学生の時は周りにファンが多くいたのと、地元でライブがあったおかげで東京のライブまで行くようになり、完全に依存症のようになっていたという感じです。

大学生の時は、車を運転する時はカセットにダビングした「ウェルカム・トゥ・ザバダック」、家にいる時は「遠い音楽」をずっと聴いていました。たぶんどちらも数100回は聴いたと思います。愛読していたキーボードマガジン(かサンレコ)で上野さんが連載を始めたり、吉良さんが名古屋出身ということもあってか、地元のFM愛知でPOP SALADというレギュラー番組が始まったこともあり、ますますはまります。

そうこうしているうちに就職活動の時期を迎えましたが、ZABADAKの影響で「映像音楽を作る仕事に就こう」という無謀な夢を抱くようになっていました。ただ、その方法が分からず、「広告代理店を受ければいいのかな?」と頓珍漢なことを考えていました。そんな時にたまたまサンレコでナムコのサウンドクリエイターの求人広告を見て「これだ!」と思いました。ゲーム音楽も映像音楽の一種だし、何よりお給料がもらえて福利厚生がしっかりしているのがいい(大学入学直前に父が亡くなっていたので、母に経済的負担をかけるわけにはいかない)と即決しました。

そこからは必死にデモテープを作り、一応保険というか練習を兼ねて(失礼)何社かゲーム会社を受けて落ちたりもしつつ、無事本命のナムコに合格しました。エントリーシートにはしっかり「ZABADKが好き」と書いて。唯一そこに反応してくれたのがナムコの採用担当だった川田さんだったというのも運命を感じます。

そして93年に上京してナムコに入社します。「これでZABADAKの東京ライブにも簡単に行ける」と興奮し、ファンクラブに住所変更の手紙を送ったのを今でもはっきり覚えています。実はこの年は激動の1年で、入社早々の5月にYMOが再結成して「テクノドン」をリリースし(実はこれが初任給で最初に買ったCDでした)、東京ドームでライブを行いました。自分が東京に来たと同時にYMOとZABADAKが両方活動している。人生がばら色に見えました。

会社では吉良さんの高校時代の同級生がいて、「あいつにチューブラーベルズを聴かせたのは俺だ」なんて言うし、東京ってすごいなと思いました(名古屋の人ですけど)。しかし、幸せは長くは続かないもので、夏頃にいきなり上野さんの脱退が発表されました。とりあえず名古屋の健康フェスティバルにZABADAKが出演すると知って行きました。ライブというよりイベントの1コーナーで歌う感じでしたが、カウントダウンが始まっていたので、かなり無理をして行きました。そしてその週末に日比谷の野音で行われたnoren wakeに行きました。

noren wakeでは、いろいろな思い出がこみ上げてきて泣きました。いっぱい涙が出ました。確かグッズも全部買いました。ファンクラブの通販も利用して。プレイヤーを持っていないのにLDまで買いました。とりあえず吉良さん1人で活動を続けるということでしたが、やはり上野さんが抜けるのは本当にショックでした。

それでも吉良さんの1人ZABADAKのライブには、名古屋も含めて行きましたし、CDも買っていましたが、心の奥底で違和感がありました。もちろん上野さんのソロCDも買ってライブも行きましたが、それも何か違うし…。結局「吉良さんと上野さんが一緒に作っていた音楽が好きだった」と再認識し、だんだん心がZABADAKから離れていきました。

ちょうど仕事が忙しくなってきたこともあって、プライベートであまり音楽を聴かなくなり、ライブを観に行く回数も激減しました。そんな感じで10年ほど過ごしました。ZABADAKを10年間狂ったように聴いて、10年間ほとんど聴かないって、今にして見れば自分でも変だなと思います。

そうこうしつつ、自由を手に入れるために猛烈社員からフリーの作曲家に転身したのですが、そんな時に奇しくもアイマスのレコーディングでマグネットスタジオを使うことになりました。マグネットスタジオと言えば言わずと知れたZABADAKの聖地、ファンクラブの所在地でもあるんで住所を暗記するほどの場所でした。

「ここであの名曲の数々をレコーディングしたのか」「ファンクラブの会報とか封入してたのか(さすがに本人はやっていないと思いますが)」と久々に熱い気持ちを思い出しました。そこからまた旧譜を引っ張り出してきて聴くようになります。

そんな時に「千早のカバーで遠い音楽をやる」というのを聞きました。すでにオケは完成している状態だったため、「ディレクションをやらせてください!」と申し出ました。他の人にわけの分からないディレクションをされたくないので。そしてお守り代わりに家にあるZABADAKのCDを全部持ってレコーディングに臨みました。きっとキモオタだったと思います。歌録りだけでなく、ミックスにもこだわりまくって「MASTER SPECIAL 03」の「遠い音楽」カバーは完成しました。

その翌年にツイッターを始めたのですが、たまたま吉良さんがアイマスの「遠い音楽」を褒めてくださっているツイートを発見し、そこから吉良さんとの交流が始まりました。「ハモがちょっと違う箇所があるけど、全体的にはよく出来ている」みたいなコメントをいただいて嬉しくなりました。「遠い音楽」はアコースティックな印象とは正反対で、実は歌のエフェクト処理が複雑で、それがサウンドの一番の肝になっているのですが、昔読んだインタビュー記事の記憶を頼りに、CDを何度も聴きながらエンジニアさんと試行錯誤して、オリジナルにかなり近い質感を出しました。

アイマスでカバーしたことで「遠い音楽」が再び注目されるようになり、吉良さんご本人にもZABADAKファンにも喜んでもらい、「わずかながらの恩返しが出来たかな」と自分でも満足しています。アイマス界隈でも「カバーの中では屈指の完成度」という評価を得ているようなので、この仕事を引き受けて本当によかったと思います。

そのおかげで吉良さんや菊池誠先生とも繋がりができ、全然関係のないところで松田克志さんとも繋がりができ、自分の中でZABADAKブームが再燃しつつ、ライブに行きたいけどいつもスケジュールが合わなくて行けないなあと思っていたら、30周年ライブの2日目で吉良さんが倒れて救急搬送されたと聞きました。

心配でしたが、療養しつつも少しずつステージに立っておられるし、ツイッターではわりと頻繁につぶやいておられるので大丈夫かなと安心していました。ツイッターでは、昔疑問に思っていたZABADAKの音作りの話(マリロリでもよくパク…参考にしています)、ユーミンやオフコースなんていうちょっと意外なミュージシャンの話、すごくどうでもいい話など、吉良さんときくまこ先生と深夜に3人で会話をするのがひそかな楽しみでした(意外に知り合いが見ていて羨ましく思っていたらしいです)。

吉良さんが亡くなる1週間ほど前にも吉良さんがいきなり新興宗教の話を初めて、深夜に3人で盛り上がり、話の流れで吉良さんに「ZABADAKが自分にとってはカルトみたいなものです。本当によく聴きました。ありがとうございます」と言ったのが、最後の会話になりました。

自分にとっては、吉良さんと一緒に音楽をやるというのが長年の夢だったのですが、もう一つ、数年前から吉良さんと一緒に岩手のマルカン大食堂に行きたいと思っていました。しかし、今はどちらもないです。

ZABADAKはデビュー当時こそ、バブル期のパルコ(西武グループ)という権力をバックに数々のメジャーなCM音楽を手掛け、順調そうに見えましたが、その後レコード会社が次々に変わって不遇な時代を過ごしました。そのおかげで権利関係が複雑になり、今でも廃版になっていて手に入りにくいCDが多いと聞きます。そんな逆境でもポリシーを曲げることなく頑張った吉良さんに心から拍手を送ると共に、感謝の気持ちを伝えたいです。

どうもありがとうございました。あなたがいなければ今の自分もいませんでした。安らかにお眠りください。

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