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持続する社会を、どうやって本気でつくるのか?

「持続する社会を、どうやって本気でつくるのか?」

だれと創るか?どこで創るか?

3.11のあの日、私は銀座線で日本橋に向かっていた。突然外苑前で電車が止まった。無表情な東京の住民が、さすがに10分も経って顔を見合わせ始めた。不安がよぎって来たのだろう。

電車内にアナウンスがあった。「ただいま地震の影響で地下鉄が止まりました。次の外苑前まで動きますので、地上にお降りください」

何のことかわからず外苑前の地上に出た。人々がいつも以上に溢れている。商業施設のテレビをみんなが見ている。そこに移っているのは、仙台の凄まじい様子だった。

すると第二波が東京まで襲ってくる。外苑前の少し気取った美しさを醸し出す商業施設の屋上の看板が揺れる。「看板が落ちるぞ」と誰かが言って、悲鳴が上がる。

あの日、僕が感じたのは、危機感と共に、時代が揺れているということだった。
時代が変わる、経済優先の時代が終わると思った。

わが子は当時2歳のかわいい盛り。それにも関わらず、WEBの受託制作がメインのしがない中小企業である当社は、相変わらずブラックな働き方をしていた。夜12時にオフィスでクタバリ家に帰る力さえなく、オフィスの床に転がって眠る日々、子供の寝顔にしか会えない。これでいいのかと思った。

当時36歳だったけれども、この先10年、20年、この東京でやって何が残るのか?自分は何のために生きているのか?それくらい大都市のシステムの歯車の一部に組み込まれている気持ち悪さを感じた。

これからどこで生きていく?どこで働いていく?それは、だれとどこで創っていくか?という強烈な問いを私に残した。


なぜ福岡か?

なぜ福岡に移住したのか?本社を移したのか?と聞かれることは多い。
ありがたいことに様々なインタビューで話をさせて頂いた。しかし、それがちゃんと伝わらない、もどかしさもある。他人のフィルターを通さず、自分の言葉で語ろうと思う。

たまたま、家族で旅行に来ていた。と面倒なのでインタビューでは答えていた。たまたまといっているが実は嘘だ。妻が子供を守るために様々な情報を必死に集める中で、東京に居続けることのリスクを察知していた。

それで、西の方に、月に1回でも体を癒すために、福岡に旅行に来たのだ。今となっては、その情報の正否も怪しい。けれども、私達夫婦は必死だったのだ。子供を守りたい。

そして、私は初めて訪れた福岡。泊まったホテルがどこにあるかすらも分からない。近くにあった福岡城址が、単なる田舎ののどかなラピュタみたいに見えた。(それぐらい無知だった。)

しかし、街に出てみると、人々がなぜか幸せそうだ。つまり人間の表情がある。自分を殺していない感じ。それは東京の満員電車の人々の表情と比べて、何倍もエネルギーに満ち溢れて見えた。

当時、子供が2歳、東京の電車に乗せると敏感なわが子は何かを感じて、電車を降りたいと泣きじゃくる。なんでこの子が泣くのか?今思うとわかるが当時は戸惑っていた。電車に乗ってる人が迷惑そうな顔をする。すいません。そう思って、目的地にたどり着けずに、次の駅で降りる。そんな日々。

しかし福岡の地下鉄に乗って、ぶらり糸島に行く途中に、やはり長距離の疲れから子供が泣いた。すると、電車の乗っているおばちゃんたちが、にっこりと笑みを浮かべてこちらにやさしいまなざしを向けている。

「よーしよし、子供は泣くのが仕事やけんねぇ」

わが子にかけてくれた言葉に感動した。
自分で精一杯の東京、赤の他人の子供にまで気を配れる福岡。

妻も、私も、この違いに驚きしかなかった。
おそらく思い返すと、この体験が、私達を福岡に招いてくれたのだと思う。

子供が子供らしく、大人は人間としての成長を追い求めることを続けていく土地。

それが福岡だったのだ。

当時の社員に謝りたい。

個人と夫婦の思いは福岡に出来た。しかしながら、当時、東京本社には40人違い社員がいた。子供を持ち、マンションを購入したばかりの社員もいる。給料を与えなければ彼らが滅びてしまう。そうやって必死に維持してきた会社だった。しかし、結局は自分を支えてくれる家族を大事にできていない。それにあの地震で気づいたときに、結局今は無理して頑張っても、10年後は朽ち果てる自分が見えた。

社長が朽ちたときに、その会社は終わる。それならば、もう一回エネルギ-を取り戻し、彼らと共に再生したい。一人になるかもしれないが、いつか彼らを呼び戻したい。正直に社員に話そうと思った。

「俺は、福岡に移住する。なぜならば・・・」

あの時の、社員の表情は忘れられない。怒り、不安、とまどい、恐れ、それらが入り混じった表情だった。きっと、この人(社長)は、自分の家族、自分のことしか考えていない。私達を捨てるつもりだ。あの頃の社員の立場になれば、自分も間違いなくそう思っただろう。

しかし、それでも。申し訳ないと思いながらも、我が子を、自分の家族と根が張れる土地に移りたい、後のことはその先にあるのだと思った。26歳でつくった会社が、ちょうど10年経った時だった。

あれから6年、改めて思うこと。

それから福岡に家族で来て、なんの手掛かりもなく、ただひたすらサバイバルが始まった。
そうしているうちに、当時4億近い売り上げは、一気に10分の一になった。福岡の地で何の実績もない、何者でもないことを悟った。苦しかった。東京で積み上げた実績もクリエイティブも、何の意味もなさなかった。

この福岡の土地では、福岡をどれだけ考えて、盛り上げるかを考える「本物の人間」の集まりであって、それ以外は、ただのブローカーみたいな存在だった。

じゃあ自分はどうするんだ。社員の生活を犠牲にして、生き残りをかけて福岡に来たのに、何も作れない。くやしい。なぜなら、福岡のことを、街のことを、企業の課題を何もしらない。

結局、生き残りのために、無料もしくは数万円ででホームページを作ることくらいしかしかできなかった。それが自分にできる最大の貢献だった。

まったく持続的でないその取り組みは、結局トラブルになり、地元の人々から嫌われて、村八分にあった。そうして、この地で生きて行こうとと誓った家族を不幸にした。

そこから、福岡移住計画を立ち上げ、がむしゃらにこの地で生き残ろうと思った。


同時に地方創生が国の施策になり、その時流に乗ったようにも思った。
地方の課題、人口減少、このままでは消滅する村、様々に直面しながら、せめてネガティブにならずに、ポジティブにやっていきましょうよ。というエールを送ろうとしたが、結局は、その地に「居なければ」、そんなエールも一瞬のまやかしにしかならなかった。「メンター」はいらないのだ。

失望する地元、ふがいない自分。そんなことを繰り返しながら、あっという間に6年の月日が流れた。

日本全国津々浦々まで、血を通わそうとする国の施策「地方創生」の限界を知った。

大事なのは、その土地であきらめずに粘ること。倒れずにやり続けること。その体力を、持続性をどうやって地元で、民間で創っていくのか?

6年経って、改めて自分の視線は、解像度の荒い航空写真みたいな地図ではなく、半径500メートルに存在するある意味「部族(トライブ)」の人々の目線にある。まだまだだけどそう在りたいと思う。

経済変動、自然災害、戦争危機、それならば選択肢をつくるしかない

3.11をきっかけに福岡に移ったあとには、3年後に熊本震災、朝倉の豪雨被害、北朝鮮のミサイル問題、大阪の台風、北海道の地震、これだけ外的要因に翻弄される中で、一つの船にしがみついて、生き残っていけない。それはみんなが思っていること。もっと分散型で、もっと多様な、ありとあらゆる選択肢を増やさなければ、私達は滅びるという危機感。

私達スマートデザインアソシエーションが今年16期目を迎えて、今チャレンジしようとすること。ありとあらゆる可能性を、チャレンジを生み出して、挑戦して、失敗すること。そこから、また這い上がって次を生み出していくこと。

つまり選択肢を世の中に提示したい。

本当の意味で持続的。言葉だけじゃなく、全員の知恵を、経験をつぎ込みながら、私達は、進みたい。

共感してくれる仲間が欲しい。

会社の垣根を超えて、経済がつくりあげたヒエラルキーを超えて、どうやったら持続的な暮らしを、わが子の笑顔を続けられる社会をつくれるか、そこに本気でコミットしてくれる、仲間が欲しい。

金融、不動産、クリエイティブ、アート、エンジニアリング、編集、建築すべての知見を結集して、22世紀の日本を迎えたいのだ。

いまここで、諦めたら終わりなのだ。

須賀 大介

株式会社 Smart Design Association 代表取締役
福岡移住計画 代表 


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