断髪小説『キョウダイ』
あらすじ
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本文
(ここは、……)
視界に広がる光景は暗闇だ。しばらくすると目が慣れてきて部屋に配置された家具の輪郭がぼんやりと見えてくる。
(何だ、ウチじゃない)
テレビもテーブルもローチェストも使い慣れたものだ。どうやら椅子に座って眠っていたらしい。喉の乾きを覚えて、水を飲もうと立ち上がろうとした。
(あれ?)
ガタッと椅子の脚が動いただけだった。まるで椅子が体に張り付いているかのように、立ち上がれない。それにどこか肌寒い。
(なにこれ? どうして?)
目線を下ろして見た自分の姿は下着姿だった。最近お気に入りの白のナイロン地にレースをあしらったキャミソール一枚を羽織るだけだ。
そして体に細い鎖が何重にも纏わりついている。それでいて両腕だけは自由だ。動かせる両手で鎖を外そうとしたけどガチャガチャと無為に音を立てるだけだった。むしろ鎖が動くたびに下ろしているウェーブを帯びた髪に絡まり、プチプチと千切れる感触が痛い。背中側に鎖を繋ぐ南京錠らしきものがいくつもぶら下がりガチガチに止まっているみたいだ。
しばらくすると廊下と繋がっているリビングの扉がガチャリと空いた。一瞬でパァッと部屋が明るくなる。暗さに慣れていた目には眩しく、思わず目を細めた。
「目が覚めたみたいだね」
黒髪の男性らしき姿がぼんやりと見えた。聞き覚えのある声でその人の名前を呼んだ。
「航? どうしてここに」
飛行機の距離に転勤となって、ここ一年ほど遠距離恋愛となっていた。こちらに戻ってきているなんて聞いていない。こうして直接会うのは何ヶ月ぶりだろうか。
「どうしてって、彼女の裕香に会いに来るのに理由なんている?」
目が慣れてきて、彼の姿がはっきりと見える。黒髪ストレートのショートヘアに黒いスラックスを履き、Tシャツの上にカジュアルなワイシャツを羽織っていた。数ヶ月前と会った時と変わりのない姿だ。彼は首を傾げて、無害そうにニコニコ笑っている。それもよく見かける彼の表情の一つだ。
「連絡くらいくれても……。まさかこれはあなたが?」
「うん。そうだよ」
彼の表情は変わらずニコニコと笑っていた。その姿に薄寒いものしかない。
「外して」
「ヤだよ」
スタスタとスリッパの音を立てて、こちらに近づいてくる。眉根を寄せ、彼を睨みつけるように見上げた。
「なぜこんなことを?」
「心当たりあるでしょ?」
「……」
とある光景が頭に浮かび、一瞬目が泳いだ。すぐ忘れるように頭から振り払った。航がそれを知っているはずがないのだ。
頭上からはくすくすと笑い声が聞こえてくる。
「今、図星って顔をしてたね」
「してない。こんなことをされる心当たりもない!」
強めの口調ではっきり言い渡した。精一杯の強がりだ。
「ふぅん。シラを切るんだ」
「何もないって言ってるじゃない! 航、自分が何をしてるかわかってるの?」
「そのセリフはそのまま君に返すよ」
「どういうことよ?」
ドクンドクンと心臓がうるさい。彼の様子からあの事を知ってるような気がしてくる。
「すぐ認めて殊勝な態度なら可愛げもあるのに」
ニコニコとした笑みが消え、彼の目が冷ややかなものに変貌していた。
「……っ!」
ゾクリと背筋が凍った。彼はスラックスの後ろポケットからスマートフォンを取り出して何か操作をして、画面をこちらに向けてきた。
✳︎✳︎◇◆◇✳︎✳︎
『あぁっ……!』
『すげーエロい』
『やっ、そこは……』
スマートフォンには動画が流れていた。そのスピーカーから女性の喘ぎ声とくちゅくちゅと水音を部屋に流れてくる。緩くウェーブした長い茶髪の女性と金髪のツーブロックの男性がベッドの上で交わり合っていた。
(何で、航のスマホにこの動画が!?)
その映像は心当たりそのものだった。
『ココ、もうぐちゃぐちゃ。淫乱だな』
『はやく、ちょうだいっ、……歩』
『いいぜ、……裕香』
「これはどういうことかな?」
「……どうして、それを」
声を絞り出すのがやっとだった。体中からさあっと血の気が引くのが分かる。
「どうして、ね。まさか弟の歩と浮気するなんてね」
動画に映っていた金髪の男性は歩と言って、航の二つ下の弟だ。そしてウェーブの茶髪の女性は――私だ。
「……」
何も言葉が出てこない。なぜ航がその動画を持っているのか、そもそもなぜ動画が存在するのか、何もかもが疑問しかない。
「だんまり? ねぇ、弁明もないの?」
「……違う」
「違うって、何が?」
どうにかしてゴマさかなくてはならない。イケメンで紳士的、大企業に勤める航は彼氏として優良物件なのだ。関係が悪くなって別れるなんてことにしたくはない。
「私じゃない……」
あの映像の女性が私という証拠はどこにもないはずだ。
「どう見たって裕香と歩だよね?」
「たぶん映像が加工されたんだよ! 私、歩くんとそんな事をした覚えないもん」
「……」
「航、信じて! 誰かが私達を別れさせようとしてやったんだよ」
航を信じ込ませたくて、つい語気が強くもなる。
「……くくく」
「航? なに笑って」
「信じてって、ねぇ。笑うしかねぇな」
「……笑うなんて、ひどい」
簡単には信じてもらえない。分かっていてもショックだ。
「裕香が寝てる間にさ、この部屋を調べたんだよ。そしたら色々と面白い発見があってさ」
「そんな、勝手に」
抗議の声も取り合わず、航は淡々とした様子で話を続けている。
「まず、随分とごついシルバーリングを持ってるよね。このサイズだと親指にしか入らないんじゃない?」
百合を模った大きなクロス模様が特徴的なリングを掲げていた。
「わ、私のよ」
「へぇ。前、俺に強請ってきたブランドとはずいぶんと違うじゃないか」
「最近はそういうのも好きなの」
サイズは明らかにメンズ仕様だし、確かにあの青い箱を象徴としている好きなブランドとは似ても似つかない。
「このブランド、歩がよく付けてるヤツだよね」
「そ、そうそう。歩くんのを見ていいなぁって」
「どうりで。裏にAyumuって彫ってある」
「っ……!!」
航がニコッとした笑顔のまま指輪の裏面を見せてくる。
「そ、それね、カッコいいねって話をしていたら歩くんがくれたんだよ。そんなのが彫ってあるなんて知らなかったなぁ」
しどろもどろになりながらも苦しい言い訳を並べた。
「へぇ、あの歩がねぇ」
「そ、そうなの。気前がいいよね」
「ふぅん、いつの間にそんなに仲良くなったのかな。ま、いいけど」
航は納得したのかしていないのか、興味を無くしたようにコトっと近くの机にシルバーリングを置いていた。
「他にもあってさ」
「な、なにが?」
背中に冷たい汗が伝う。心臓は変わらず早鐘のように鳴り続けている。
「ゴミ箱に使用済みのゴムがあったけど、まさか誰かがこの家に侵入してわざわざ入れて行った、なんて言わないよね?」
「――っ!!」
「わりと最近かなぁ、まだ乾いてないし。誰とヤッたのさ?」
「そ、それは……」
「歩と愉しんでたんでしょ」
「……」
沈黙の後に告げたのは謝罪の言葉だった。
✳︎✳︎◇◆◇✳︎✳︎
「本当にそう思ってるの?」
まるで天気の話でもするかのような明るめの声のトーンなのに、腕を組みこちらを見る目は一層冷ややかだ。居心地が悪く自然と俯きがちにもなる。
「……言った通りよ」
「随分とお愉しみだったみたいだけど……、歩が良くなった?」
「違う! あれは寂しかったときに歩くんが慰めてくれて」
「……」
「歩くんを好きになったとかじゃなくて、私は航が一番っ」
続きの言葉は言わせてもらえず、彼の声が上から覆い被さってくる。
「悪いことをしたと思っているなら、まず態度で示してくれないと」
「どういう……?」
「例えば」
航はリビングの床に置かれた大きめのボストンバッグから取り出したものを片手に持ち、こちらに近寄ってくる。そして手に持っているものを私の膝の上にそっと置いた。
「よく反省してますって言う人がする髪型ってあるだろう」
二十センチ程の銀色の棒で先端にギザギザの刃が付いているもの――バリカンだった。
「ちょっと……嘘でしょ?」
暗に坊主にしろって言われたのだろう。一瞬で顔からさぁっと血の気が引いていくのが分かる。
「嘘も何も許しを乞うなら、せめてこのくらいはしてほしいなぁ」
「そんな……」
「よりにもよって弟と、あの歩とだなんて」
あのニコニコといつも穏やかな航が忌々しげに苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
「ただ謝ってもらっても許せるわけないんだよ」
「っ……」
許してもらえない。その事実が胸に突き刺さった。
膝の上に乗るものをしばらく見つめ、腕が震え上手く力の入らない両手で握りしめるようにバリカンを持ち上げた。
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