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教皇フランシスコとマルコ・ポッツア著 『CREDO』の解説(4)

                  阿部仲麻呂

        (東京カトリック神学院教授、サレジオ会司祭)

今回が『CREDO』の解説の最終回です。ミサの中で毎回唱えながら、深い意味を考えたことのない『CREDO』が身近なものになる解説です。最後までお読み下さりありがとうございました。(Salt編集部)

はじめに

 古来より伝わる「使徒信条」という祈り(毎週のミサの中で唱える信仰宣言の祈り)の言葉は8つの段落で成り立っています。最初の3つの段落は神への信頼を表明するためのものです。次の5つの段落は人間にとって重要な願い(救いへの希求)を捧げています。
一般人が望む④自分や友人の存在が決して虚無に帰すことがないという願い、そして⑤大切な友情が永遠につづくこと、という最終的な二つの項目は地上での人生の価値を再確認させてくれるものです[キリスト者の場合は④からだの復活、⑤永遠のいのちへの希求となります]。それらは共通して「大切な相手との関係性は決して滅びることがない」という切実な望みから派生した二つのことがらなのです。
しかし、もしも私や相手の存在そのもの(からだ)が消滅してしまえば、二度と関われません。これが人生の途絶です。行き止まり状態です。万事休す。誰もが虚無の彼方に消えたくはありません。心からよろこびを感じて大好きな相手といっしょにしあわせな状態をいつまでもいつまでもかみしめていたい、のが私たちの本音なのです。
今回は、「使徒信条」の後半部の5つの段落の四番目と五番目の内容について説明します。からだの復活について、永遠のいのちについて、それぞれ見てゆきます。

■からだの復活を信じます
*対話7 からだの復活を信じます(「使徒信条」第七段落)
*講話7 復活への歩み

 まず、「使徒信条」第七段落についてながめます。マルコ・ポッツア師は教皇フランシスコに対して、「からだの復活」について、たくさんの質問を投げかけています。教皇は、「人間の哀れな現実よりも神の愛のほうがはるかに偉大であること」を強調しています。私たち一人ひとりのそれぞれの存在は常に弱さや限界をかかえています。言わば、私たちという身体的な存在は滅びゆくもろさをかかえています。もろくて醜く、色あせる存在としての私。


しかし、「使徒信条」には「からだの復活を信じます」という人間の切なる願いが記されています。私たちには欠点もたくさんあります。そういう欠点のある私たちには意外と味わいもあります。まるで、欠けた茶碗でも金継ぎを施せば、たちまち風雅な名品にまで変貌する場合があるように。金継ぎとは、茶碗の欠けた部分に漆を幾重にも塗り重ねて接合し、最後に金箔などを重ねることでひび割れ部分を美しく装飾する技法です。私たちも限界をもつ自分という個性によって「かけがえのない、いとおしい存在」として味わい深く愛される人間性を備えているわけです。神は私たちの個性を尊重して愛してくださいます。決して取り換えがきかないのが一人ひとりの人間なのです。神は私を、他者に替えがたい貴重な「あなた」として認めてくださいます。そのような愛の関係性が「からだの復活」として「使徒信条」の文面において死守されてきたのです。イエス・キリストの十字架上の死の姿が、相手を徹底的にゆるして愛を貫徹する復活の栄光(愛の重み、愛することの重大さ)と重なり合うように、かけがえのないその人の全存在(からだ)は価値を得るのです。
 マルコ師も次のように述べています。「誠実な神は、あなたの大切な人のいのちを決して奪ったりはしません。あなたの大切な人は、むしろ変容させられます。悪魔は私からすべてを奪うことはできますが、神との友情は奪えません。大切な人の人生は奪われるのではなく、変容させられるのです。これほどに美しいことがほかにあるでしょうか」(『CREDO』164頁)。まるで、金継を施されて美しく変貌した茶碗のように。

■永遠のいのちを信じます
*対話8 永遠のいのちを信じます(「使徒信条」第八段落)
*講話8 神のみまえで

 次に、「使徒信条」第八段落についてながめます。マルコ・ポッツア師は教皇フランシスコに対して、「永遠のいのち」の奥深さについて、たくさんの質問を投げかけています。教皇は「神のやさしさ」あるいは「神の弱さ」を徹底的に強調しています。以下の文章を読めば、すぐにわかります。「私が確信していることですが、神は、私が犯した過ちをゆるしてくださいます。なぜならば、神には『弱点』があるからです。つまり、神には、常に型破りな行動に踏み出してしまうほどの『ひどい弱点』が備わっているのです。神はどうしても相手をゆるさないではいられず、どうしてもゆるしてしまうのです。これは、『いつくしみの病』です。神は、『相手をあわれむという姿勢を決してやめることができないほどに病んでいる』のです。私たちは、目を伏せて謙虚な気持ちで主のみまえに身をさらせば、それでじゅうぶんです。そう思いたいですね」(前掲書、181頁)。徹底的に迎えてくださる神の愛につつまれることが、私たちにとっては永遠のいのちのしあわせなのでしょう。
 同様の趣旨の文章が繰り返し登場します。次のとおりです。「ともかく、今や人生のたそがれどきを迎えているこの私は、ちょうど陽の沈むときの美しい光景を思い浮かべるかのように、謙虚な気持ちで頭を下げて、神のみまえにかしずく瞬間を想像しているのです。神からの抱擁を受けずに、ただ神のみまえにたたずむことなどは、私には思いもよらないことなのですよ。言わば、距離を置いて神を眺めるだけの勇気などは、私にはないのです。『最期の審判』の際の判定は、おそらく、そのような感じになるのではないでしょうか。これは幻想にすぎないのかもしれません。しかし、私には、そのような気がしてなりません。イメージが浮かんでくるのですよ」(前掲書、182頁)。まさに教皇の本音が凝縮されています。
 さらに次のようにも述べられています。「神は、『いつくしみをもち続けるという病気』にかかっておられるので、私たちとは異なる判断基準を用いて働きます。しかし今、私がこのようなことを言うのは、決して人びとに罪を犯すように勧めたいからではありません。誤解しないでくださいね。いいえ、そうではないのです。むしろ、このように偉大で善良な神がおられることに数多くの方々が気づいて、感動するためです」(前掲書、183-184頁)。
 御父である神から気にいられて徹底的に従順に愛の関係性を生き抜いた聖母マリアは聖霊によって御子イエス・キリストを産み育てました。マリアこそが永遠の愛の幸いな働きを身につけて生きている人間の先駆者です。教皇フランシスコは聖母マリアのことを以下のように高く評価しています。「カナでマリアがしたことは、今でも繰り返されています。つまり、それは、聖母が息子のイエスに私たちのことを話すときなのです。彼女は、私たち一人ひとりのことをイエスに取り次いでくれます。私たちが聖母を呼び出しさえすれば、彼女は私たちのために執り成してくださるのです。彼女は、カナでの婚宴のときのように、ただ息子のイエスと話すことしかできない母親で、自分では決して何もできない者ではありますが」(前掲書、186頁)。私たちも聖母マリアのように他者のしあわせを願って執り成しをする人間となれますように。相手を祝福して、ともに悦ぶという、永遠のしじまの、えも言えぬほどのしあわせをかみしめて生きつづけることができますように。

新たなるはじめに
 これまで「使徒信条」の第七段落と第八段落の要点を『CREDO』という翻訳書を手がかりにして簡単に紹介してみました。こうして、「使徒信条」が決して古色蒼然とした過去の遺物などではなく、むしろかなり新鮮な活ける三位一体の神の愛の呼びかけの出来事の尊い記憶が圧縮された「楽譜」であることがわかり始めたのかもしれません。あとは、「あなた」が「使徒信条」という楽譜を丁寧に個性豊かに演奏することで、あなたの周囲で生きているさまざまな聴き手たちの心をいやしつづける日々を積み重ねてゆけるとよいのかもしれません。こうしてつむぎだされる美しき音楽は新型コロナウイルス禍の気苦労や痛みを和ませて新たな人生を開拓するよすがとなるのかもしれません。どうかよき日々となりますように。アーメン。   2022年4月6日

(終わり)

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