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教皇フランシスコとマルコ・ポッツア著『CREDO』の解説(3)                   阿部仲麻呂(東京カトリック神学院教授、サレジオ会司祭)

はじめに

 古来より伝わる「使徒信条」という祈り(毎週のミサの中で唱える信仰宣言の祈り)の言葉は8つの段落で成り立っています。最初の3つの段落は神への信頼を表明するためのものです。次の5つの段落は人間にとって重要な願い(救いへの希求)を捧げています。

一般人もキリスト者も相手との関係性によって生きます。あらゆる人間にとって重要な願いは、①共同体に迎え入れられて温められること、➁すでに亡くなった恩人や親族との絆を末永く保ちたいという望み、➂人を傷つけた哀しみを償って関係性を回復することへの望み、④自分や友人の存在が決して虚無に帰すことがないという願い、⑤大切な友情が永遠につづくこと、という5つの項目に集約できます[キリスト者の場合は①聖なる普遍の教会、➁聖徒の交わり、➂罪のゆるし、④からだの復活、⑤永遠のいのちへの希求となります]。

それらは共通して「あらゆる苦しみからの解放(救い)への渇望」から派生した5つのことがらなのです。今回は、5つの段落の二番目と三番目の内容について説明します。聖徒の交わりについて、罪のゆるしについて、それぞれ見てゆきます。


■聖徒の交わりを信じます

*対話5 聖徒の交わりを信じます(「使徒信条」第五段落)

*講話5 最も慰めを与える一つの真実

 まず、「使徒信条」第五段落についてながめます。マルコ・ポッツア師は教皇フランシスコに対して、「聖徒の交わり」について、たくさんの質問を投げかけています。聖徒の交わりも罪のゆるしも関係性を深めて回復するものです。聖徒の交わりを南米の身近な者同士の親しみのある交流のように理解している教皇は「私たちの兄としてのキリストとともに神を私たちの父と呼ぶことで親密な家族関係を形成すべきこと」を徹底的に強調します。

その際に、教皇は尊敬すべき神学者のロマーノ・グァルディーニ師の次の言葉を引用しています。「キリスト者であるということは、キリスト御自身が私たちのうちに生きておられることを発見することにほかなりません。しかし、この同じキリストは私たちのうちにおられることを願っているばかりではありません。そこにおられるもう一人の方のうちにも、また、そのそばにおられる第三、第四の方のうちにも、そしてキリストを信じるあらゆる人のうちにも、ともにいてくださるのです。神によって生み出されたこの親密な生活の中で、私たちは神の子としての家族を形成し、そこにおいてキリストが『大勢の兄弟の中で長子』(ローマ8・29)として現われます。この交わりを現わす際の最も純粋な表現は『私たちの父』です。ここでは、キリスト教における『私たち』について語っているのです。長子によって導かれた神の子たちは、共通の父に立ち帰ることになるのです」(『主』2014年、608頁)。

 教皇は歴史上のあらゆる聖人たちを「人生の友であり模範」と呼び、親しく付き合う相手として絶えず執り成しを求めます。しかも『CREDO』では巻末に近づくにつれて、聖人たちのなかでも聖マリアを最も頼りがいのある慈母として大切にするよう読者に勧めます。


■罪のゆるしを信じます

*対話6 罪のゆるしを信じます(「使徒信条」第六段落)

*講話6 今こそ、いつくしみのとき

 次に、「使徒信条」第六段落についてながめます。マルコ・ポッツア師は教皇フランシスコに対して、「罪のゆるし」の奥深さについて、たくさんの質問を投げかけています。教皇は「神の愛のあまりにも行き届いた寛大さ」を徹底的に強調しています。御父である神と御子としてのイエス・キリストとがともに親しく生きている家族の絆に私たちも招き容れられて徹底的に大切にされるのです。教皇の言葉を以下に引用しましょう。「あらゆる事柄はいつくしみにおいて明らかにされ、すべては御父のいつくしみ深い愛のまっただなかで解決されるからです。『罪のゆるし』は、御父の愛の最も目に見えるしるしであり、御子イエスは御自分の生涯全体によって御父の愛を明らかにされることを望んでおられました。……中略……『いつくしみ』とは、ゆるすことによって相手の人生を変容させ、根本から刷新させる、愛の最も具体的な行いです」(『CREDO』150-151頁)。

 そして教皇は「神のいつくしみ」を次のように説明しています。「今こそ、『神のいつくしみのひととき』です。私たちの旅の日々は、神がいっしょにいてくださること(臨在)によって支えられており、聖霊が私たちの心に吹き込む恵みの強さによって私たちの歩みは導かれ、一人ひとりの心が形づくられ、愛することができるように神からはからっていただけるのです。……中略……神によるはからいとは、まさに、貧しい人びとが、支援者からの力強い励ましを得ることによって、世間からの無関心という仕打ちを克服し、こうして誰かによって支えていただけるほどに自分の存在に価値があることを実感するような、『いつくしみのひととき』なのです」(『CREDO』158-159頁)。「使徒信条」の最初の三つの段落で述べられている三位一体の神の姿が「いつくしみ」に満ちたものであることが、教皇の語りの随所から浮かびあがってきます。あらゆる人を子どもとして迎え容れようとして絶えず待ちわびている御父の寛大な想いを伝えるべく御子イエス・キリストは長男としての責務を果たすための「徹底的なへりくだり」を十字架の死に至るまで激しく生き抜き、そのような御父と御子とを突き動かしていた聖霊の活力が今日も私たちの心の底で燃えているのです。


新たなるはじめに

 これまで「使徒信条」の第五段落と第六段落の要点を『CREDO』という翻訳書を手がかりにして簡単に紹介してみました。神の愛の家族関係は絶えず相手を大切な身内として迎え容れてあたためるいつくしみのわざにおいて確かなものとして私たちの心の底の自分勝手さ(悪意に満ちた罪の状態)を駆逐します。まさに他者を大切にする愛情深い者たちの関係性の深まり(聖徒の交わり)も罪のゆるしも神のわざなのです。   2022年4月6日

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