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ミサを味わう(5)その1

田中 昇(東京教区司祭)

第5回 「回心の祈り」(その1)


全能の神と、兄弟姉妹の皆さんに告白します。
わたしは、思い、ことば、行い、怠りによって、たびたび罪を犯しました。
聖母マリア、すべての天使と聖人、そして兄弟姉妹の皆さん、
罪深いわたしのために神に祈ってください。

 旧約聖書において、神はご自身の民に、いつも極めて思いがけないときに、その姿を現し、人々は畏れおののき、自分たちが神の御前に立つに相応しくないことを自覚します。そのため彼らは、時に地に身を投げ出したり、顔を隠したりします(創17:2, 28:17、出3:6, 19:16)。新約聖書においては、キリストの変容の際に、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人は突如としてイエスが光り輝くのを見たときに同様の反応を見せており(マタ17:6)、またヨハネの福音におい、「わたしである」というイエスの言葉を聞いた人々も地に倒れ(ヨハ18:6)ます。また黙示録において天から啓示を受けたヨハネも(黙1:17)、また突然キリストの栄光の輝きに照らされたパウロも同様の反応を示しています(使9:4)。

 イスラエルの人々は、神が彼らの中に現れることを予め知らされていたときには、神の御前に出るために時間をかけて細心の注意を払い準備しました。例えば、イスラエル人はシナイ山で主に会うために三日かけて準備し、主は雷鳴と稲妻と密雲の中に現れ、契約の言葉「十戒」を人々に与えました。準備の期間中、イスラエルの人々は主のために自分たちを聖別し自分たちの着物を洗うよう指示されました(出19:9-19)。預言者も、「お前は自分の神と出会う準備をせよ」と言っています(アモ4:12)。

 私たちもまた、ミサに与るときにはいつも主との聖なる出会いに対して自分自身を準備するよう求められています。しかも、私たちと神との出会いは、あらゆる古代イスラエル人と神との出会いよりも深遠なものなのです。というのは、キリスト信者は、ミサにおいて、雲の形における神の臨在に近づくだけではなく、祝別された秘跡において私たちの主イエス・キリストの聖なる体と聖なる血に与るために主のもとに近づくからです。そして私たちは、諸秘跡において主と触れ、特に聖体拝領において自分の中に聖なる主を受けるのです。そして、この準備は私たちが、家を出る時からすでに始まっているのです。

 私たちはこの神秘に与るのにまったく相応しくない者です。実際、私たちがミサでしようとしていることと、わたしたちの罪深さとは対極にあります。だからこそ司祭は、全能の神と信者である兄弟姉妹の前で、私たちが謙遜に自己の罪を告白して、「神聖な祭儀を祝うために、ふさわしく準備するよう」に勧めるのです。イスラエルの人々がシナイ山で主に近づく前に彼らの着物を洗う必要があったのと同じように、私たちも、ミサで神に近づく前に罪から自己の魂を清める必要があります。実際、洗うということは、罪を取り除く聖書的なイメージです。

「どうか私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください。・・・私を洗ってください。そうすれば、私は雪より白くなるでしょう」(詩51:2, 7)

私は告白します

 「回心の祈り」として知られる祈り(ラテン語のこの祈りのタイトルになっている最初の言葉Confiteorは「私は告白します」という意味です)は、自己の罪を告白するという聖書に基づく長い伝統を言い表しています。時にこれは神の民の悔い改めの正式な公的儀式として行われました(ネヘ9:2)。
またある時には、個人的で自発的な神への応答でもありました(詩32:5, 38:18)。さらに、旧約において自分の罪を告白することは、知恵文学の諸書においても勧められていました(箴28:13、シラ4:26)。さらに旧約聖書の律法においては、人がある種の罪を告白するよう命じています(レビ5:5、民5:7)。

 自分の罪を告白するという習慣は新約聖書においても継続していきました。新約聖書の初めでは、群衆が洗礼者ヨハネの後に続いて、悔い改めの洗礼に際して自らの罪を告白しています(マタ3:6, マコ1:5)。新約聖書の他の箇所でも、キリスト信者が罪を告白することについて熱心に説かれています。使徒ヨハネは、主が罪をゆるしてくださるということを確信して、自己の罪を告白しなければならないと説いています。

「もし私たちが、自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪をゆるし、すべての悪から私たちを清めてくださいます」
(ヨハ1:9)

使徒ヤコブもまた、私たちが罪から自由になることができるように祈ってくださいと互いに願いながら、私たちが互いに罪を告白するように勧めています。

「ですから、あなたがたは癒しを得るため、互いに罪を告白し、互いのために祈りなさい」(ヤコ5:16)

 罪の告白は、古代イスラエル、そして新約聖書の時代から日常的な習慣であったため、初代教会のキリスト信者が、ご聖体に与る前に自らの罪を告白していたことはまったく驚くことではありません。このことは聖体祭儀に関する古代教会の時代の聖書外典文書にも記されています。2世紀初めに書かれた『ディダケー』(使徒たちの教訓)には、「主の日に集まり、パンを割き、聖体祭儀をしなさい。しかし、まずあなたの過ちを告白し、あなたの犠牲が汚れのないものとなるようにしなさい」と書かれています。このディダケーに記されている初代教会の習慣は、それ自体が「相応しくないままでパンを食べることがないように、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい」(1コリ11:28, 27)という聖パウロの熱心な勧告を反映しているものと思われます。(続く)

次回は第5回「回心の祈り」(その2)です。


 

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