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ミサを味わう(8)

田中 昇(東京教区司祭)

第8回 「ことばの典礼」(その3) 説教


 キリスト教典礼の黎明期から、神のことばは単に読まれるだけではなく、朗読の後には説教が伴い、朗読箇所の意味が説明され、会衆の生活にどのようにみことばを適応させていったらよいのかを導いていました。説教を意味するHomilia―ホミリアという語は、もともとギリシア語で「説明」を意味します。初代教会では、司教が概して主日のミサを司式し、また説教をする人物でした。この原始的な実践から、アウグスティヌス、アンブロジウス、ヨハネ・クリゾストモの説教、そして他の数多くの教父たちによる有名な説教集が生まれました。
 しかし、朗読された聖書の箇所を説明するという典礼的実践は、キリスト教がその始まりというわけではありませんでした。それは、古代ユダヤ教の習慣に起源があります。例えば、エズラ記において、律法の書は単に人々に朗読されただけではありませんでした。レビ人は、「律法を民に説明」しました(ネヘ 8:7)。彼らは神の律法を読み、その「意味を明らかにしたので、人々はその朗読を理解した」のです(ネヘ8:8)。 

 ユダヤ教の会堂(シナゴーグ)では、同じことが実践されていました。聖書が朗読されれば、必ずその後に説明が伴っていました。イエスご自身、この慣習を実践していました。故郷であるナザレの会堂で、彼は朗読された聖書を詳しく説明し(ルカ4:18-30参照)、またガリラヤ全土の会堂で定期的に教えられました(マコ1:21; ルカ1:15参照)。

 説教は、信者が朗読された聖書の箇所の意味を理解し、自らの生活にそれを適用できるようにするための彼らへの信仰教育にとって極めて重要なものなのです。第二バチカン公会議は、説教は様々な形態を採るキリスト教の信仰教育の中でも「格別な位置」を占めるべきだと教えました。[1]そのように信仰を伝えるためには説教は非常に重要なものなのです。そして、みことばの意味を的確に伝える説教は、まさに秘跡を受けるためのもっともよい準備になるのです。


[1] 『神の啓示に関する教義憲章』 24項を参照。

誰が説教をするのか
説教は、叙階された聖職者、すなわち助祭、司祭または司教によって行われなければなりません。[2]ミサにおける福音朗読についても同じことが当てはまります。福音書以外の聖書朗読は、修道者あるいは信徒によって行われますが、福音朗読だけは助祭、司祭または司教が行わなければなりません。司教は使徒の後継者であり、司祭と助祭とともにその権限を共有していますが、かくいう司教には福音を宣言し、キリストが使徒たちに教えたすべてを伝える責任があります(マタ28:18-20)。福音であるよき知らせが聖書の核心部なのですから、福音朗読を聖職者のみに限ることによって、私たちは、福音書に至るまでのすべての聖書箇所が、いかにも「使徒から受け継がれる信仰の権威のもとに読まれ、理解されるべきである」ということに注意を払うべきなのです。


[2]東方教会では一般的に助祭が説教をすることは許されていません。

 このことから、なぜ説教が叙階された聖職者によってのみ行われなければならないかが明らかになります。特定の話題に関しては、信徒、修道士もしくは修道女の方が、司祭あるいは助祭よりも優れた話術や提供可能な確かな神学的、霊的知識、経験を持っているかもしれません。さらに、これらの賜物が共同体と共有される方法は説教以外にもたくさんあります。これらは一般的に教話と呼ばれる宣教方法です。しかし、それはミサのときの説教と同種の目的、機能ではありません。説教は、理想的に言えば、思慮に富み、明確で、人を引き付けるものであるべきだとしても、結局のところ肝心なのは雄弁であるとか識見があるとかの問題ではないのです。聖パウロは

「私たちは自分自身を述べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストをのべ伝えているのです。私たち自身は、イエスのためにあなたがたに仕えるしもべなのです」(2コリ4:5)

と語っていますが、説教者が語ることは、「世間話やジョーク」を語ることでもなければ、「単なる私的な考えや一個人の経験、イデオロギー」を示すことでもなく、また「聖書や神学に関する知識」を教えることでもありません。説教はそれ自体が「教会の使徒から受け継いだ信仰」を、説教者の才能やアイデアではなく、教会の権威に基づいて「みことばの意図」を会衆に的確に伝え、それによって信じる民がより主の御心にかなった生活を送れるようにする奉仕の業なのです。
 それゆえ、特にそのことのしるし、あるいは「保証」として説教が聖職者によって行われるのだと言えます。それが、司祭が祭服・ストラをつけて、聖霊の働きのうちに使徒的な熱意に燃えて「もう一つの祭壇」である説教台から語る理由です。「説教は典礼そのものの一部」なのです(教会法第767条)。神の民全体は、教会の信仰を証しなければなりませんが、使徒から受け継いだ信仰を、責任を持って教えることは、使徒たちの後継者である司教の固有の任務です。そして、各司教が教皇と世界中の他の司教たちと一致していることは、使徒から継承する信仰のさらに可視的で具体的な証となります。司祭も助祭も、適切な準備と叙階の秘跡によって、この固有の責務を共有するがゆえに、ミサのときに福音を公に朗読することも、さらに説教をすることもできるのです。

神の仕事
 
16世紀のブリンディジの聖ラウレンチオ司祭は、「説教は使徒の仕事、天使の仕事、キリストの仕事、神の仕事である」と語りました。神のみことばは、あらゆる善の宝庫のようなものなのです。信仰、希望、愛、そして全ての徳、聖霊の賜物、福音のもたらす至福、全ての善行、人生の功徳、天の楽園のすべての栄光は神のみことばの働きに依拠するのです。私たちは、説教という教会の奉仕の務めを通して、心にみことばをしっかり受け入れることで、魂も精神も生活そのものも御心にかなったものへと変えられていく恵みを受けます。もしミサに与った後、その日、自分に神が語りかけられたことをすっかり忘れ去って生きるのでは、キリスト信者として一体何の意味があると言えるでしょうか。ミサに行くために家を出た時と、家に戻った時とで、何か良い変化がなかったら一体その人にとってミサは何の意味があると言えるでしょうか。私たちは、御心を知りそれを生きる者となるように招かれているのです。そのために教会が祝っているのがミサ聖祭の目的なのです。

次回は第9回 「ことばの典礼」(その4) 信仰宣言です。

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