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ミサを味わう(6)その2

田中 昇(東京教区司祭)

第6回 「いつくしみの讃歌」と「栄光の讃歌」(その2)


他者のためのいつくしみ
福音書にはまた、自分のためだけではなく愛する人のたに主のいつくしみ、あわれみを求めてイエスのもとにやって来る人々について書かれています。ひとりの母親が娘のために助けを求めてイエスに叫びます。

「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです」(マタ15:22)

ひとりの父親が、息子の苦しみに代わって、必死になってイエスに頼りました。

「主よ。私の息子をあわれんでください。てんかんで、たいへん苦しんでいます」(マタ17:15)

 私たちもまた、ミサでキリエ、いつくしみの賛歌を祈るときは、いつでも、愛する人々のことを主に委ねることができます。聖書に出てくる母親や父親のように私たちは、「職を失ってしまった私の友人に主のいつくしみを」、「癌と診断された私の近所の人にいつくしみを」、「教会から離れてしまった私の息子にいつくしみを」「孤独で、不幸で、人生で進むべき道を見失っている私の娘に、どうかいつくしみを」などというように祈ることができます。

なぜギリシャ語が用いられているのか?
 
これまで多くの聖人たちが、典礼で行われる神のあわれみを求める三重の祈りの意義について考えを巡らせてきました。この祈りを、イエスを兄弟、救い主、そして私たちの神として祈っているのであると考えた聖人もいれば、神の三位(最初の主=父、キリスト=子、最後の主=聖霊)それぞれにいつくしみを求めているという意味で聖なる三位一体を指しているのだと考えた聖人もいました。
 伝統的に、この祈りはギリシャ語(キリエ・エレイソン)で今日まで繰り返されてきました。ギリシャ語は典礼で使用される3つの言語の1つにすぎず、ヘブライ語(例:「アレルイヤ」、「アーメン」)」とラテン語(彼の時代に西方教会すべての典礼で使用されていた言語)もまた古くから使用されていました。聖トマス・アクィナスにとって、典礼で使用されるこれら3つの言語は、キリストが架けられた十字架上で使われた3つの言語を表しています(ヨハ19:19-20)。聖アルベルト・マニュスは、なぜ神のあわれみを請う祈りが、典礼のその他の箇所で使用されるラテン語ではなくむしろギリシャ語でされるのかについて興味深い説明をしています。

「この信仰は、ギリシャ人から私たちラテン系の民族にもたらされました。ペトロとパウロがギリシャからラテンの土地にやって来て、彼らから救いが私たちにもたらされました。この恵みがギリシャ人から私たちのもとに来たことを記憶しておくために、私たちは神の恵みが人々によって最初に祈られたまさにその一言一句を今なお保っているのです。私たちには、教父たちを尊敬する義務があるため、彼らが始めた伝統に私たちもまた従わなければならないのです。」[1]

[1] Thomas Crean, The Mass and the Saints(San Francisco: Ignatius Press, 2008), pp. 44-45.

「栄光の賛歌」いつくしみの賛歌キリエから栄光の賛歌グローリアへ
 聖アルベルトゥス・マニュスはキリエへの応答であるグローリアに関して次のような指摘をしています。

「『私はあなたがたの叫びに答えて、聖体の秘跡を通して、あなたがたのもとに、私があなたがたの父祖たちに遣わした者を再び遣わすことにする。あなたがたがその者を受け止めて、悪を取り除かれ、あらゆる良いもので満たされるために』と、あたかも神が言っているかのようです。」[2]

[2] Thomas Crean, The Mass and the Saints (San Francisco: Ignatius Press, 2008), p. 47.

天には神に栄光、地にはみ心にかなう人に平和。

 今や、栄光の賛歌として知られる祈りに至って、典礼の調子は、悲しみに満ちた悔い改めから喜びにあふれた賛美へと移行します。この祈りは多くの場合歌われますが、これはもともと一般の聖歌集に由来するものではありません。栄光の賛歌の最初の一行は、羊飼いにキリスト誕生のよき知らせを告げるためにベツレヘムの野で天使たちが歌ったことばから引用されています。

「いと高き所には栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ。」(ルカ2:14)

 私たちがこれらのことばを日曜日の典礼(待降節と四旬節は除く)の最初に歌うことは実にふさわしいことです。なぜなら、クリスマス(キリストの降誕)の神秘が、ある意味でミサごとに現実のものとなるからです。約2000年前に、神が乳飲み子イエスにおいてこの世にご自身を明確に示されたように、彼はすべてのミサにおいて聖別のときに祭壇上で秘跡的に現存なさいます。ですから、ベツレヘムで天使たちがキリストの到来を前もって告げるために使ったのと同じ賛美のことばを繰り返すことによって、私たちは自らを準備してイエスを迎えるのです。(続く)

次回は 第6回 「いつくしみの讃歌」と「栄光の讃歌」(その3) です。



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