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ミサを味わう(13)

田中 昇(東京教区司祭)

第13回 「感謝の典礼」(その3) 奉献文−感謝の賛歌Sanctus


「聖なる、聖なる、聖なる神、全てを治める神なる主。主の栄光は天地に満つ。天には神にホザンナ。
主の名によって来られる方に賛美。天には神にホザンナ。」

 私たちは、この言葉に促されて、聖体祭儀において現実に起こっていることを天使の視点で見ることができるようになります。起句である「聖なる、聖なる、聖なる神・・・主よ」によって、私たちはすぐさま霊的に天に引き上げられます。これはイザヤ書6章3節に由来するもので、この箇所において預言者イザヤは天の王が神の玉座に座しておられる幻を見ていました。そのとき、王の威厳が厳かに現れ、天のみ使いたちがその方を崇めていたのです。

 イザヤは、「高く上げられた玉座に主が座っておられるのを見た。その衣の裾は聖所を満たしていた」(イザ6:1)のを見たのです。イザヤは、主の上に、六つの翼を持つ天使、「燃えているものたち」を意味するセラフィムを見ました。この特異な呼称は、この天使たちが非常に神に近い存在であるため、神の輝きを放っていることをほのめかしています。しかしこのような天使的存在でさえ非常に畏れつつ、神の臨在の前にいるのです。彼らは、神の満ちあふれる栄光に耐えられず目を背けて顔を覆い(イザ6:2)、お互いに呼び交わし、喜びに狂気して賛美の歌を次のように唱えています。

「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地を全て覆う。」
(イザ6:3)

ここで「聖なる」(ラテン語ではSanctus)という語が三度繰り返されていますが、それはヘブライ語においては最上級の強調表現なのです。それゆえセラフィムは、全き聖なる方であり、すべての神々を超える唯一の神である主を歓呼のうちに讃えているのです。また天使たちは「主の栄光は天地に満ちる」と歌いながら、被造物の至るところに示されるその偉大さゆえにあらゆる時に神を賛美しています(詩8:1; 19:1-6; 24:1-3を参照)。

 イザヤ書の記述では、この天使の賛美の歌は劇的な効果を持っています。彼らが歌うとき、神殿の敷居は揺れ動き、その内部は煙で満たされるのです。イザヤは、当然のことながら畏れおののきます。イザヤは、自分が神の聖なる臨在に立ち会うには取るに足らない存在だと理解して、「ああ、災いだ。私は汚れた唇の者。・・・・・・しかも私の目は、王である万軍の主を見てしまった」(イザ6:5)と言います。

天使たちとともに歌う
 
新約聖書において、ヨハネがこれと同じ体験をしました。ヨハネは主の日に霊に満たされて(黙1:10)、我を忘れさせる天上の典礼の幻を見ました。ヨハネは栄光に輝く人の子イエスを見て、恐れながら「この方を見たとき、私は死人のようにその足元に倒れた」(黙1:17)と言ってイザヤと同様の反応をしています。またイザヤが体験したのと同じように、ヨハネは神の玉座のみ前で同様の賛美の歌を歌う六つの翼をもった天使のような生き物を見ています。「聖なる、聖なる、聖なる、全能者である神、主。かつておられ、今おられ、やがて来られる方」(黙4:8)と。
 ヨハネは、全世界に現わされた主の栄光ゆえに、セラフィムが神を賛美したというイザヤの言葉を思い起こさせ、その創造のみ業ゆえに神を賛美しながら、いかに「二十四人の長老」が神の玉座の前にひれ伏して歌っているかを次のように伝えています。
 「私たちの主、また神よ、あなたこそ、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方。あなたは万物を造られ、万物はあなたの御心によって存在し、また造られたからです」(黙4:11)。

 こうした背景を念頭に置くと、私たちがミサで「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の神なる主よ・・・」と言うときに、それが何を意味しているのか、より明確になるはずです。司祭は、叙唱の結びで「私たちも、すべての天使、聖人と共にあなたの栄光を讃えて歌います・・・」と祈ってSanctusを歌いますが、まさに私たちは、天使たちや聖なる人々とともに声を合わせて、喜びの賛美をささげているのです。ですから、ミサのまさにこの時に、私たちも天使、聖人たちと同じようにすることは畏れ多くも実に相応しいことなのです。聖体祭儀において、私たちはイザヤやヨハネのようになって、天上の典礼の域に達するのです。[1] 天使たちが歌ったとき、地が揺れ動き、神殿を煙で満たした幻の中でイザヤが見たのと同じ天の玉座に、今このとき、私たちも神秘的に入っていくのです。この預言者も使徒も、ともに自分は畏るべきしるしを見るには取るに足りない者であると感じていましたし、セラフィムでさえも、神の栄光のみ前を飛び交っているときに、あえて顔を覆う必要性を感じていました。彼らのように、私たちは今、祭壇の上に現存しようとしておられる王の中の王、全き聖なる神である主に出会うために備えるのです。歴史的にみると、この賛歌を歌った後、私たちが畏敬の念を持って跪いていた教会位の伝統も実に理にかなったことだったのです(日本ではこの所作はおこなわれることは稀です)。


[1] 『カテキズム』1139項を参照。

 「感謝の讃歌」つまりSanctusとして知られているこの祈りの後半で、私たちは、イエスがエルサレムに行列して入城した際に、彼を歓迎して群衆が用いたことば、「ホザンナ」と「主の名において来る方が祝福されますように」を繰り返します。この二つの表現は詩編118編に由来するのですが、この詩編は、もともと巡礼の詩編で主要な祭の折に、神殿に向かう道すがら唱えられていたものです。「ホザンナ」は「私たちを救って下さい」を意味するヘブライ語の音訳で、典礼的な礼拝において賛美の表現になっていたものです。「主の名において来られる方」の上に願う祝福は、普通、神殿にやって来る巡礼者たちの上に祈り求められました。「枝の主日」として知られる日に、会衆は、主の名において来られる方、言い換えれば、神に等しく、神に代わって働きかけられる方であるイエスを迎えるためにこの表現を用いています。
 ですから、聖体祭儀のこの時点で、私たちがこの表現を繰り返して口にすることは、まったくもって相応しいことなのです。エルサレムの群集が、詩編118編に起源を持つこの表現によって、イエスを聖なる町に迎え入れたように、私たちも自分たちの教会にイエスを迎え入れるのです。なぜなら、イエスご自身が、祭壇上の聖体のうちに、今まさに現存なさろうとしておられるからです。

次回は第14回 「感謝の典礼」(その4) 奉献文−聖変化:エピクレーシスと秘跡制定句 です。


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