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ミサを味わう(6)その1

田中 昇(東京教区司祭)

第6回 「いつくしみの讃歌」と「栄光の讃歌」(その1)


「いつくしみの賛歌」
今回の改訂で「あわれみの賛歌」と言うタイトルが「いつくしみの賛歌」と言う呼称に変更になりました。

先 主よ、いつくしみを。
会 主よ、いつくしみをわたしたちに。
先 キリスト、いつくしみを。
会 キリスト、いつくしみをわたしたちに。
先 主よ、いつくしみを。
会 主よ、いつくしみをわたしたちに。
(または)
先 キリエ、エレイソン。 会 キリエ、エレイソン。
先 クリステ、エレイソン。 会 クリステ、エレイソン。
先 キリエ、エレイソン。 会 キリエ、エレイソン。

神のいつくしみを求めるこの三重の祈りは、回心の祈りでの自身の罪の三重の是認に完全に一致する形で続いています。それはまた、後ほど感謝の賛歌の中で歌われる、神の聖性の三重の肯定と平行する形で行われます。すなわち「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の神なる主・・・」(イザ6:3、黙4:8)[1] と永遠に歌う天国の天使や聖人たちに私たちは典礼において加わるのです。
 私たちは、三重に聖なる神に近づくために、典礼の聖なる秘跡に参加する準備をしているとき、回心の祈りで祈るときのように、聖母マリアとすべての天使と聖人たちと一体となって三重の祈りをしているのです。典礼の中で、神の臨在の時が近づいていることと、天と地が一体となることに対する畏怖に包まれ、私たちは、神のあわれみを求めずにはいられないのです。「私たち皆が一緒に、天使や聖人たちと一緒に、神のご臨在の中に入り、私たちにいつくしみをください、救いを与えてくださいと求めているのです」。これは、粘り強く、時にどもりつつも、何度も繰り返すに値するキリスト信者の祈りです。



[1]この表現から感謝の賛歌(Sanctus)は東方教会ではTrisagion-三聖頌とも呼ばれています。

いつくしみの意味
 
聖書には、神のいつくしみ、あわれみを切に求める個人についての胸を打つ記述がいくつか書かれています。たとえば、詩編51はその誠実さと己の罪に対する弱さの告白で満ちています。この詩編でダビデは、自分が罪深い者だという事実を受け入れ、主の御前に心をさらけだしているのです。ダビデは自分の罪を認め切に訴えています。

 しかし、神のいつくしみを願い求めるということはどういうことでしょうか?私たちがこのいつくしみとは一体何であるかをはっきりと理解していない場合、この懇願はしばしば誤解されることになります。教皇ヨハネ・パウロ2世は、かつていくつしみ、あわれみとは、あわれみを請う者と請われている者の間に「不平等の関係」を築くものであると誤ってみなされることがよくあると指摘していました。そのような場合、神は、単に強情な民を許す全能の王のような存在であるとみなされます。しかし神はそういう方ではありません。
 聖書における神のいつくしみ、あわれみとはそのようなものではありません。それは放蕩息子のたとえ話を読めばはっきりと分かるでしょう。この話では、父親は息子の悪行について息子をゆるしたばかりか、息子の中に生じる善なる心、心を入れ替え、自分の罪を嘆き、人生を正しい軌道に戻したいという崇高な望みを見ているのです。そして、父親は、息子の中の善なる心を見て喜び、家に迎え入れたのです。

 神は、私たちが悔い改めた心をも見ておられるのです。詩編の作者はかつて次のように言いました。「砕かれた、悔い改めた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません」(詩51:17)。実際、心からの悔い改めを神は拒むことはないのです。これが、神のいつくしみ、あわれみを理解するための正しい意味合いなのです。神のいつくしみ、神のあわれみ、それは、私たちが罪人であるにもかかわらず、神が私たちをどこまでも愛しておられるということなのです。

主よ、いつくしみを
4世紀にはすでに「主よ、いつくしみを」(ギリシア語でキリエ・エレイソン)という祈りが、典礼で繰り返されていました。これは古代ギリシア語圏の教会の懇願の祈りに対するキリスト信者たちの応答になったもので、やがてラテン典礼にも同じ言葉で祈る習慣ができました。[2] 

 福音書では、多くの人々が、生活のなかでの癒やしや助けを切に求めるという意味合いで、神のいつくしみ(あわれみ)を求めてイエスのもとにやって来ます。たとえば、2人の盲人がイエスのもとにやってきて、こう言います「ダビデの子よ、私たちをあわれんでください」(マタ9:27、20:30-31も参照)。盲人の物乞いバルテマイも同じようにしています(マコ10:46-48、ルカ18:38-39を参照)。同様に10人の重い皮膚病を患った人々が「イエス様、先生。どうかあわれんでください」と呼びかけ、イエスは彼らのらい病を癒やされます(ルカ17:13)。

 これらの人々に倣って、私たちはキリエ(いつくしみの賛歌)の中で、主が助けてくださることを確信して、自分自身の苦しみを主に委ねることができます。実際の病気や個人的な試練の時、さらに霊的、精神的な暗闇、弱さ、そして罪に陥った時にもこのようにすべきなのです。助けを求めてイエスのもとに来た盲人や足がなえた人と同じように、私たちは自分の苦しみや試練、頑なな心、霊的な、また倫理な心のまひを背負ってミサにやって来るのです。私たちは、「主よ、いつくしみを」と叫び求めるとき、同時に神の安らぎと力強さとを得てきたイエスの時代から今日にいたるまでの数えきれないほど多くの苦しむ人々の魂に自らも加わるのです。(続く)


[2] J. A. ユングマン『ミサ』(福地幹男訳、オリエンス宗教研究所)203ページ参照。

次回は第6回 「いつくしみの讃歌」と「栄光の讃歌」(その2)です。



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