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ミサを味わう(15)

田中 昇(東京教区司祭)

第15回 「感謝の典礼」(その5) 
奉献文−信仰の神秘、記念と嘆願


「信仰の神秘」
 
わたちは、今、ミサの中でもここぞという時に到達しました。司祭がパンとぶどう酒の上に聖別のことばを語った今、それらはキリストの御体と御血になっているのです。敬虔な気持ちで、司祭は、キリストの御血が入っているカリスの前で、沈黙のうちに神を賛美しながら敬虔に深くお辞儀をしてから[1]、厳粛に「信仰の神秘」(Mysterium Fidei)[2] と言います。


[1] ローマ規範版では司祭は畏敬の念を表すため跪きます。正教会などの東方教会では、司式司祭は伏拝します。これは、たとえば創17:3, 申9:25, マタ17:6, ヨハ18:6, 黙1:17, 5:8など聖書において、人間は真に至聖なる存在の前では平伏さざるを得ないことを反映しているものと思われます。

[2] これは公会議前のミサ典礼書では杯に向けて唱えられることばの一部でした。Hic est calix sanguinis mei, novi et aeterni testamenti: mysterium fidei: qui pro vobis et pro multis effundetur in remissionem peccatorum.(私訳:これは私の血の杯、新しい永遠の契約の血、信仰の神秘、罪のゆるしの為に、あなたがたと多くの人の為に流されるもの。)Mysterium fidei(信仰の神秘)ということばは、キリストの最後の晩餐のことばにはなく、また正教会などの東方教会の古い伝統にも見当たらないものであり、第二バチカン公会議後の典礼改革でこの表現が秘跡制定句から外されたことは至極適当なことと思われます。

 このことばは、本来、これに対して会衆が返すべきことばを発するように招く儀式上の合図のようなものではありませんでした。それゆえこのことばは、むしろ今まさに生起している神秘のことで司祭が感じる驚きや畏敬の念を表現しているものと言えます。神の子であるイエス・キリストの御体と御血は、ゴルゴタ(カルワリオ)の丘で私たちの罪のためにささげられましたが、そのイエスは、今やパンとぶどう酒の形色のもとに祭壇の上に実際に現存しているのです。それゆえパウロの表現(1テモ3:9)を用いて、司祭はこれこそまさに「信仰の神秘」であると声高らかに宣言するのです。

 この神秘によって司祭が感じる驚きに共感して、会衆はイエスの死と復活に集約された救いの歴史を告げ知らせますと宣言するのです。この会衆の宣言については、3つの選択肢が用意されていますが、そのうち2つは、パウロがコリントの教会の信者に宛てていることば、「だから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」(1コリ11:26)から取られています。

 なお3つ目の選択肢は、イエスを信じてやって来たサマリア人たちが、イエスに出会った後に言ったことば、「私たちは、この方が本当に世の救い主であると分かったのです」(ヨハ4:42)を用いながら、キリストの死と復活が持つ救いの力を告げ知らせるものとなっています。

選択肢1 
「主よ、あなたの死を告げ知らせ、復活をほめたたえます。再び来られる時まで。」
選択肢2
「主よ、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、あなたの死を告げ知らせます。再び来られる時まで。」
選択肢3
「十字架と復活によってわたしたちを解放された世の救い主、わたしたちをお救いください。」

記念、奉献、取り次ぎの祈り、結びの栄唱

記念
 
私たちは、ここまで明らかに示された筆舌に尽くし難い神秘を、すべて一度に理解することはできません。それはあたかも、それらの意味を把握してその神髄に迫るために、ひと呼吸おいて時間を長く取る必要があるかのようです。聖体制定の叙述に続く二つの祈りがまさにそうなのですが、その二つの祈りは、ミサの中で生起していることの多様な様相を明確にし、私たちがそれを心の中で沈思黙考する機会を与えてくれるものです。

 最初の祈りは、アナムネーシス(anamnesis)つまり「記念」と呼ばれます。私たちは、すでに奉献文がいかなる意味で(典礼的な)「記念」であって、十字架上のキリストの救いの業を現在化し、それゆえに私たちがその力に、より十全的に参与できるかを見てきました。しかしながら、より厳密で専門的な意味において、このアナムネーシスとはミサの中で生じていることを明らかにする祈りのことをいいます。イエスは、「私の記念として、これを行いなさい」と言われました。そこで、司祭は教会が忠実に以下の命令を果たしてきたと天の御父に語ります。

「御子私たちの主キリストのとうとい受難、死者のうちからの復活、栄光に満ちた昇天を記念し...」 (第二奉献文)

 もちろん神は、私たちが典礼で何を行うのかを知らせてもらう必要はありません。すでに神はそれをご存知であり、その意味を完全に理解しておられます。しかしながら、私たちの側には神に語る必要があります。私たちには自分が体感した神聖なる神秘にあずかる喜びを天の御父に伝える必要があるのです。

奉献
 
(典礼的な)「記念」(anamnesis)は、「奉献」として知られる二つ目の祈りの基礎になります。その奉献は、ミサにおいていかに私たちが聖金曜日にイエスがささげたものをささげる畏れ多い特権をいただいているかを表現しています。十字架上でイエスは、ただひとりでご自身のいけにえをささげました。ミサにおいて、イエスは私たちをこのいけにえと結び合わせながら、ご自身の教会とともにそれをささげているのです。

「御子キリストの救いをもたらす受難、復活、昇天を記念し、その再臨を待ち望み、命に満ちたこの聖なるいけにえを感謝してささげます。」
(第三奉献文)

 上述のように、私たちは自分たちがこのキリストのいけにえと一つになるように招かれています。それゆえ、奉献文の中で、奉献が単にキリストのいけにえと呼ばれるだけではなく、「あなたの教会のささげもの (Oblatio Ecclesiæ tuae)」(第三奉献文)とも呼ばれるのです。そして教会は、ミサを祝うたびに、キリストの十字架上のささげものである唯一のキリストの自己奉献の業に参与していることから、その二つのささげものは実際には一つなのです。

 またこのささげものの象徴性は、いかに教会が自力で自らを神にささげているのではなく、キリストのいけにえと一つになってささげているのかも指し示しています。パンとぶどう酒の物質的なささげものが、まさにキリストご自身の完全なささげものをいかに象徴していたのか思い出して下さい。

 聖別の後、神にささげるこのような人間的なささげものは、聖体としてのキリストの御体と御血、すなわち御父にささげられた御体と御血になります。それゆえ、教会はキリストにおいて十字架上の御子の完全な自己奉献的な愛に参与するのです。このことを『ローマ・ミサ典礼書の総則』は次のように説明しています。

「この記念の中で、教会、とくに今ここに集まった教会は、聖霊のうちにあって、汚れのないいけにえを御父にささげます。しかし教会は、信者が汚れのないいけにえをささげるだけでなく、自分自身をささげることを学び、キリストを仲介者として、日々神との一致と相互の一致の完成に向かい、ついには神がすべてにおいてすべてとなるように意図しているのです。[3]」


[3] 『ローマ・ミサ典礼書の総則』79項。


三つの典型的ないけにえ
 
第一奉献文では、次いで聖書からいけにえの三つの雛形が引用され、神がアベル、アブラハム、メルキゼデクのいけにえを喜んで受け入れたように、教会のささげものを受け入れて下さるように願います。

「このささげものを慈しみ深く顧み、快く受け入れてください。義人アベルの供えもの、太祖アブラハムのいけにえ、また、大祭司メルキセデクが供えた聖なるささげもの、汚れのないいけにえを受け入れて下さったように。」

 旧約聖書に登場するこれらの父祖たちは、それぞれ、キリストのいけにえを前もって示すいけにえをささげ、キリストの供えものに結ばれながら、私たちが神にささげるべき典型的な自己奉献を示しているのです。

 パンとぶどう酒を神にささげ、またアブラハムを祝福した神秘的な祭司であり王であったメルキゼデクの供えものに神は好意を示しました。キリスト教の最初期から、彼のいけにえは、最後の晩餐のときのパンとぶどう酒、すなわちキリストのいけにえを予示していると考えられてきました。アベルの供えものと聞くと、私たちは神に最善を尽くさなければならないことを思い起こします。大地の実りをささげただけの彼の兄弟カインとは対照的に、アベルは「羊の群れの中から肥えた初子」(創4:4)をいけにえとしてささげながら、喜んで主に最善を尽くしたのです。神はアベルの寛大ないけにえに好意を示されましたが、カインにはそうではありませんでした。

 最後に、アブラハムは、パンやぶどう酒あるいは動物以上のものをささげました。彼は進んで自分にとって最も尊いもの、すなわち自身のひとり息子であるイサクを神にささげました。アブラハムのいけにえにまつわる出来事は、たぶん旧約聖書のどのようないけにえよりも、ゴルゴタ(カルワリオ)の丘でささげられたキリストのいけにえを前もって示すものです。創世記22章は、アブラハムがいかに愛するひとり子イサクをモリヤの山にろばに乗せて連れて行ったか語っています。イサクは、いけにえささげるために使う薪を山に運んで登り、あがないのいけにえとしてささげられるためにその薪の上で縛られました。神に完全に身を委ねて従うというこのアブラハムの英雄的な行為に応えて、神は彼の子孫を通して全人類を祝福すると誓われました。

 何世紀も経て、父なる神はご自身の愛するひとり子イエスをエルサレム(アブラハムがイサクをささげたところ、まさにモリヤを思い起こさせる町[代下3:1; 詩76:2参照])でささげました。イサクのように、イエスはろばに乗ってその地に向かい、イサクのようにゴルゴタ(カルワリオ)の丘まで十字架という木を担っていきます。そこで、再びイサクのように、イエスはその木に縛られ、あがないのいけにえ(創世記22章で、神がアブラハムに誓われた世界中に祝福をもたらすいけにえ)としてささげられます。それゆえ、聖金曜日に神である御父と神である御子は、その昔アブラハムとイサクによって予め示されたことを成就させ、また人類を祝福するという神がアブラハムに約束した誓いが現実のものとなったのです。

取り次ぎの祈り
 
奉献文が結びに近づくころ、司祭は様々な取り次ぎの祈りをささげます。初めに司祭は、すぐにキリストの御体と御血によって養われることになるすべての会衆のために祈ります。

「キリストのうちにあって、一つのからだ、一つの心になりますように」(第三奉献文)と。

 これは、コリントの教会への第一の手紙10章17節にあるパウロの次のことばを反映しています。「パンは一つだから、私たちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンにあずかるからです」。司祭はまた、私たちがキリストのいけにえに参与することで、「あなたにささげられた永遠の供えもの」(第三奉献文)、あるいはローマの教会に対するパウロの勧め、すなわち「自分の体を、神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとしてささげなさい。これこそ、あなたがたの理にかなった礼拝です」(ロマ12:1)を反映している「生きたささげもの」(第四奉献文)となるように祈ります。

 次に、司祭は、教皇と教区司教の名を挙げ、それから全ての司教たち、聖職者そして生者も死者も合わせた神の民全体のために取り次ぎを願いながら、まず普遍教会のために「全世界に広がる教会」(第二奉献文)、「地上を旅する教会」(第三奉献文)のために祈ります。取り次ぎの祈りには、普遍的な視野をもって「使徒からの同じ信仰を正しく伝える全ての人」(第一奉献文)、「あなたの民となったすべての人」(第三奉献文)への祈りに加えて、真心から「神を求めるすべての人」(第四奉献文) のために願う祈り、そしてミサのいけにえが「全世界の平和と救いのためになりますように」(第三奉献文) という祈りもあります。つづいてささげられる死者のための祈りも、「信仰のうちに先立った人」(第一奉献文)、「あなただけがその信仰を知っておられる全ての死者」(第四奉献文)、さらに「み旨に従って生活し、いまはこの世を去ったすべての人」(第三奉献文)、「全ての死者」(第二奉献文)のためにささげられます。
 

結びの栄唱(doxology)と大いなるアーメン
 
 奉献文は、早くも二世紀にはミサで使われていた賛美の表現とともに終極に至る形式をとっていました。そこで、会衆は英語では“the great Amen”つまり「大いなるアーメン」 (「全くそのとおり、まことに確かである」という意味)として知られている返答をもって答えます。

 「アーメン」はヘブライ語の単語の音訳であり、それまで言われてきたことの有効性を確約するもので、典礼が関係する諸状況においてしばしば用いられていました。例えば、レビ人たちが「イスラエルの神、主はたたえられよ、世々とこしえに」と歌うと、民はこの神への賛美を唱和して「アーメン」(代上16:36)と声をあげました。またエズラが厳粛な集会の中で律法の書を朗読したとき、神への賛美で最後を締めくくると、民は「アーメン、アーメン」と答えました(ネヘ8:6)。パウロもこのことばを同じ様に使っており(ロマ1:25; ガラ1:5; エフェ3:21)、彼の書簡の中には「アーメン」で締めくくられたものさえみとめられるのです(1コリ16:24; またいくつかの写本の1テサ5:28; 2テサ3:18にも見られます)。

 最も特筆すべこことは、天上の天使たちや聖なる者たちが、それぞれ天上の典礼において一斉に神への賛美を口にしながら、いかに「アーメン」と声をあげているかということです。黙示録では、天と地と地の下にあるあらゆる生き物は、「玉座に座っておられる方と小羊とに、賛美、誉れ、栄光、権力が世々とこしえにありますように」と唱和しています。天使的被造物はそれに答えて「アーメン」と言いますが、まるで「然り、主はとこしえに賛美され、たたえられますように」と大きな声をあげているかのようです。また別の場面では、天使たちは、「アーメン。賛美、栄光、知恵、感謝、誉れ、力、権威が、世々限りなく私たちの神にありますように、アーメン」(黙7:12; また黙5;14; 19:4も参照)と言って、神の玉座の前でひざまずいて礼拝しています。

 天上の天使たちと聖なる者たちのこの賛美は、司祭がミサのたびに次のように言うところで、地上においても繰り返されているのです。 

「キリストによって、キリストとともに、キリストのうちに、聖霊の交わりの中で、全能の神、父であるあなたに、すべての誉と栄光は、世々に至るまで。アーメン。」 

 これらのことば自体、聖書にその起源があります。その一部は、パウロのローマの教会への手紙に由来しています。「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン」(ロマ11:36)という具合にです。パウロはまた、エフェソの教会への手紙の4章3節で「霊による一致」についても触れています。典礼のこの箇所は、ミサにおける私たちの礼拝が三位一体的な本性を持っていることを表現しています。私たちは、ゴルゴタ(カルワリオ)の丘で完全に自己放棄された御子によって、御子とともに、御子のうちに、また私たちの中に住まわれる御子の霊との一致のうちに、私たちの人生のすべてをささげながら全能の御父を最善の形で賛美するのです。

 「すべてのほまれと栄光が、世々とこしえに、全能の父なる神にありますように」という司祭の賛美の声を耳にした後、私たちは天使たちのように答えて、ぜひとも一緒に神を賛美したくなり、「アーメン」と大きな声をあげるのです。[4] しかも、これは普通の「アーメン」ではありません。「アーメン」と言いながら、私たちは、救いの歴史のあらゆる偉大な先達たち、つまりレビ人たち、エズラ、パウロ、そして天上の天使たちと聖なる人々によるこの終わりなき賛美の合唱に私たち自身を加えるのです。すでにローマの初期キリスト者のミサの中で唱えられていたこのアーメンが、「天の国でこだまする天の雷鳴のごときもの」[5] とヒエロニムスが言ったのも理に適っているのです。


[4]日本では習慣として「すべてのほまれと栄光は、世々に至るまで」の部分から会衆も加わって唱えられるか歌われてきましたが、本来はこの栄唱で会衆が口にするのは「アーメン」だけです。

[5]「すべてのほまれと栄光は神のもの」と認めた上で、会衆が唱える「アーメン」は奉献文全体をも「その通りである」と認証しているといえます。司祭は、この奉献文の祈りを通して、全教会を一貫して代表してきました。そのとき、会衆は司祭がこれまでずっと祈ってきたことのすべてに「然り」と応答するのです。それゆえアウグスティヌスは、この大いなる「アーメン」が、司祭の祈りのもとで記された会衆の署名であると叙述しています(『説教』27. 2 [PL. 38, 1247 ]、『説教』272も参照)。

次回は第16回 「感謝の典礼」(その6) 奉献文−大栄光唱 です。

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