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ミサを味わう(18)

田中 昇(東京教区司祭)

第18回 「感謝の典礼」
交わりの儀(3)平和の賛歌(アニュス・デイ)


 交わりの儀の聖体拝領へと続く部分は、これから考察することになる三つの儀式を含みます。すなわち、①パンを裂くこと、②キリストの御体と御血の混合、③そして「神の小羊」の祈りの唱和です。

 ここで司祭は、聖体となったパンの分割(fractio panis)すなわち「パンを裂くこと」として知られている象徴的な行為において、聖体となったホスチアを裂きます。古代のユダヤ人たちにとって、「パンを裂く」という表現は食事を始めるときの儀式を意味していました。食事の席では、家長がパンを取り、祝福の祈りを唱え、それからパンを裂いて、その場に居合わせた者たちとそれを分かち合いました。「パンを裂く」という表現は、それを聖体祭儀と関係付けた初代キリスト者たちにとって大変重要な意味を持っていました。
 福音書は、イエスご自身がパンを裂いたときの出来事を四つ報告しています。最初の二つは、イエスが奇跡的にパン増やして多くの群集を養ったという出来事で、二か所の記事の中で記されています(マタ14:19; 15:36; マコ6:41; 8:6; ルカ9:16を参照)。一度目はイスラエルの民へ二度目は異教徒の人々へ向けた奇跡においてです。特にマタイ福音書は、いかにこのパンの増加の奇跡が聖体祭儀を予示しているか理解できるように私たちを導いてくれています。群集に食物をお与えになるとき、イエスはパンを取り賛美の祈りを唱え、それらを裂いて、群衆に分かち与えるようにと弟子たちに与えました (マタ14:19)。マタイは、後にこの四つの動詞を用いて、最後の晩餐のときに聖体が制定されたことを記述しています。この最後の晩餐が、イエスがパンを裂いたときの三度目の出来事です(マタ26:26; またマコ14:22; ルカ22:19; 1コリ11:24を参照)。「イエスはパンを取り賛美の祈りを唱えて、これを裂き、弟子たちに与えながら言われた・・・・・・」(マタ26:26)。これらの動詞を関係づけながら、マタイは、パンの増加がいかに聖体というさらに偉大な奇跡を前もって示そうと強調しているのです。前者(パンの増加の奇跡)では、イエスはパンを増やして大群集に食べさせました。後者(最後の晩餐)では、超自然的なパン、つまり聖体の秘跡としての命のパンを与えて、さらにもっと大きな数の人々、すなわち全世界、全時代を通じて聖体にあずかるキリスト者の大きな群れを養うのです。

 イエスがパンを裂かれたと伝えている四つ目の出来事は、また聖体のニュアンスを含んでいる別の場面です。すなわち、二人の弟子がエマオに向かう途上で、イエスが彼らに現れたという復活の記事です。最初、彼らは自分たちといっしょに歩いていたのがイエスだとは分かりませんでしたが、彼が「パンを取り賛美の祈りを唱え、パンを裂いて彼らにお渡しになった(お与えになった)」とき、イエスだと分かったのです(ルカ24:30)。

初代教会においてパンを裂くこと
 
使徒言行録は、初代教会がいかに人々を集めてともにパンを裂いていたか記述しています(すでに見たように、「パンを裂く」という用語は諸福音書やパウロの諸書簡に見られる聖体祭儀と関係していました)。
 諸教会や諸バジリカそして諸司教座聖堂が建設されるはるか以前に、エルサレムのまさに初期キリスト信者たちは、ともに神殿を詣でて、またパンを裂くために自分たちの家に集まって(使2:46)神を礼拝しました。同様に、数年後、エルサレムから遠く離れたトロアスで、パウロに従っていたキリスト信者たちは、週の始め(日曜)に「パンを裂くために」彼とともに集まりました(使20:7, 11)。キリスト信者が使徒たちの教え、祈ること、そして交わりに熱心であることと並んで、使徒言行録が初期キリスト信者たちの生活にとって主要な四つの特質の一つとして「パンを裂くこと」を掲げているほど(使2:42)、そのために集まることは非常に重要でした。

 パウロ自身、単に聖体祭儀を叙述するためにだけ「パンを裂く」という表現を用いていたのではありません。彼は、多くの人々が同じパンを皆で分かち合う儀式の内に豊かな象徴をも見ていました。それはパウロにとって、私たちがキリストの唯一の御体をともにするとき、キリスト信者たちが分かち合う深い一致のことを指しているのです。
「私たちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、私たちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです」(1コリ10:16-17)。

 それゆえ、司祭がミサの中で聖体のホスチアを裂くとき、パンを裂くというこの偉大な伝統が、つまり旧約聖書の時代のユダヤ人たちからイエスの実践へ、使徒たちと初代教会へ、そして今現在へと及ぶ伝統が、この儀式を通して思い起こされるのです。

御体と御血の混合
 
ホスチアを裂いた後、司祭はその一部をカリスに入れながら、次のように静かに祈ります。「いま、ここに一つとなる主イエス・キリストの御からだと御血によって、わたしたちが永遠のいのちに導かれますように。」この箇所のラテン語原文を直訳すると、「この私たちの主イエス・キリストの御体と御血の混合(commixtio)が、それを受ける私たちにとって永遠の命となりますように」となります。ここでの主題は御体と御血の混合、一致です。

 この混合(commixtio)すなわちキリストの御体と御血の混合として知られる儀式は、かつて教会の一致を表すためにおこなわれていました。ローマでは、教皇がfermentum (パン種)と呼ばれる聖別されたホスチアの小片を町中の司祭たちに送り、司祭たちは、ローマの司教との一致のしるしとして、ミサの時、自分たちのカリスにそれを入れていました。中には、この儀式をキリストの復活を象徴的に再現しているのだと解釈する人もいました。
 この考え方は8世紀のシリアに根ざしているといわれるもので、ミサの中でパンとぶどう酒が別々に聖別されることは、死によってキリストの御体と御血が分離することを象徴している一方、御体と御血が混合されるという儀式は、キリストの復活において御体と御血が再び一致することを表現しているのです。

平和の賛歌 ・アニュス・デイ(Agnus Dei
 司祭がホスチアを裂く儀式を司り、それから御血に御体を混ぜるのに対して、会衆は平和の賛歌 アニュス・デイ(Agnus Dei :ラテン語で「神の小羊」の意)として知られる次の祈りを歌うか、あるいは唱えます。

「世の罪を取り除く神の小羊、いつくしみをわたしたちに。
 世の罪を取り除く神の小羊、いつくしみをわたしたちに。
 世の罪を取り除く神の小羊、平和をわたしたちに。」

 平和の賛歌「神の小羊」は、私たちをまっすぐに神の玉座にまで引き上げてくれるまた別の祈りです。これらのことばを唱えるとき、私たちは、ヨハネが黙示録に記している勝利の小羊であるイエスを、無数の天使たちに加わって、天上の典礼において礼拝するのです。黙示録は次のように記しています。
「また、私は見た。そして、玉座と生き物と長老たちとの周りに、多くの天使の声を聞いた。その数は千の幾千倍、万の幾万倍であった。彼らは大声でこう言った。『屠られた小羊こそ、力、富、知恵、権威、誉れ、栄光、そして賛美を受けるにふさわしい方です』」(黙5:11-12)と。

 ヨハネはまた、すべての被造物が小羊を礼拝するのを見ました。「また私は、天と地、地の下と海にいるすべての造られたもの、そして、そこにいるあらゆるものがこう言うのを聞いた。『玉座に座っておられる方と小羊に、賛美、誉れ、栄光、そして力が、世々限りなくありますように』」(黙5:13)と。ミサの中で平和の賛歌を唱えるとき、私たちは小羊を礼拝しながら、この天と地の合唱に加わるのです。
 
 私たちが、「世の罪を取り除く方、神の小羊」とイエスに宛てて呼びかけることは相応しいことです。なぜなら新約聖書は、イエスが私たちのためにいけにえとなられた新しい過越の小羊であると啓示しているからです。パウロは、イエスのことを「屠られた私たちの過越の小羊」(1コリ5:7)と呼んでいます。黙示録は、イエスを屠られた小羊(黙5:6, 12; 13:8)と言い、その血は聖なる者たちの衣を洗い(黙7:14)、サタンにさえ打ち勝った(黙12:11)と証しています。
 とりわけヨハネ福音書は、いかにイエスが十字架の死によって私たちのためにいけにえとなられた過越の小羊であると認められるべきかを浮き彫りにしています。ヨハネが、イエスの口元に酸いぶどう酒を含ませた海綿を差し出している兵士たちの記事を伝えるとき、その海綿はヒソプの枝につけられていたとヨハネは記しています。なぜヨハネは、この些細なことを詳しく記述しているのでしょうか。それは、これがエジプトでの最初の過越の時に使われたのと同種の枝だったからです。
 モーセは、過越の小羊を屠り、彼らの家の鴨居にその小羊の血を塗ってしるしを付けるために、ヒソプを小羊の血に浸してから使うようにとイスラエルの長老たちに指示しました(出12:22)。ヨハネは、私たちが、イエスの死を過越のいけにえとして理解できるよう、このことを記しているのです。ヒソプが最初の過越のいけにえに使われたように、今や、ゴルゴタ(カルワリオ)の丘で新しいいけにえの小羊となられたイエスにそれが用いられているのです。
 過越の小羊との関連で、これとはまた別にヨハネ福音書が特に関心を寄せていることは、兵士たちがイエスを十字架から取り下ろしたとき、死亡を確認するために普通は足を折るところで彼らがそうしなかったという点です(ヨハ19:33)。ヨハネがこのことを指摘しているのは、本来、過越の小羊は、その骨が折られなかったからです(出12:46)。こうして再び、イエスの死は過越の小羊のいけにえとして描かれているのです。

見よ、神の小羊だ!
 
しかしながら、「神の小羊」という祈りのことばは、最も直接的に洗礼者ヨハネに由来しています。このヨハネが、イエスのことを「神の小羊」と呼んだ最初の人物でした(ヨハ1:29, 36)。ヨハネがヨルダン川で洗礼を授ける活動をしている最中、初めてイエスを見たとき、彼は「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(ヨハ1:29)と叫んでいます。
 この短い発言の中に包含されていることがたくさんあります。ヨハネは、このことばを発していることから、イエスこそがイザヤによって預言された偉大な「苦しむ僕」であると見抜いているのです。イザヤは、いつの日か、神がイスラエルを罪から救うために誰かを遣わして下さるであろうと予告したのですが、その人は「屠り場に引かれる小羊のように」(イザ53:7)、イエスは苦しむことを通してそれを成し遂げることになるのです。さらに、この主の僕は人々の罪を背負い、「自らを償いのささげげものとする」(イザ53:10-11)ことになります。そうであれば、彼が自らをいけにえとしてささげることには、当然、あがないの力があったはずです。彼のいけにえによって、多くの人が義とされることでしょう(イザ53:11)。もちろん、いけにえとなる小羊からは、過越の小羊が思い起されるはずです。しかし、イザヤ書で紹介されている新しい要素は、自分の命をささげる一個人が罪のためのいけにえとなるという考え方です。それゆえ、洗礼者ヨハネがイエスを「世の罪を取り除く」小羊と呼ぶとき、彼は単にイエスを過越の小羊であると見ているだけではなく、イザヤ書の53章に登場する長年待ち続けた苦しむ僕、つまり自らの命を罪のゆるしのためにいけにえとしてささげることになる小羊であるとも見ているのです。

 ミサのまさにこの瞬間に、「神の小羊」を唱えることは何と相応しいことでしょうか。司祭が聖別されたホスチアを裂く間、会衆は、洗礼者ヨハネとともに、イエスこそが自らの命を世の罪のあがないのためにいけにえとしてささげるイザヤ書53章の「僕である小羊」だと確信するのです。イエスこそ、屠り場に引かれて行った小羊です。イエスは、自らのいけにえが多くの人々を義としたその方です。こうして、私たちはイエスを「神の小羊」と呼び、その死によって「あなたは世の罪を取り除かれる方」と彼に向って言うのです。
 この祈りは、「世の罪を取り除かれる神の小羊・・・・・・」と典型的に三度繰り返されます。これは、ミサの中で三度繰り返される他の祈りを模倣しています。ラテン語の規範版の回心の祈り(Confiteor)では、私たちは各々、三度自らの罪を認めて、「私の過ちによって、私の過ちによって、私の大いなる過ちによって」と言います。それから、「あわれみの賛歌」(Kyrie)では、神のあわれみを願い求めて三度繰り返して「主よ・・・」と叫び声を挙げます。次に「感謝の賛歌」(Sanctus)において三度「聖なる主」を歓呼した後、聖体拝領の直前に、私たちは私たちを罪から解放することのできる唯一の方、すなわち私たちのためにご自分の命をささげて「世の罪を取り除かれた神の小羊」からのあわれみと平和を願い求める三度の呼称を行うのです。
 最後に注目すべき点として、平和の賛歌(Agnus Dei)においても、あわれみの賛歌(Kyrie)と同様に、「いつくしみをわたしたちに」という願いが繰り返されていることがあげられます。最後にイエスを「神の小羊」と呼ぶとき、あわれみを求める叫びは、平和を求める祈願へと変わります。こうして平和の賛歌は、今しがた与えられたばかりの平和のしるしに結ばれていきます。そしてこの一致は、続く聖体拝領によって築き上げられていくことになるでしょう。

聖体拝領の準備のための祈り
 
Agnus Deiが歌われている間、司式司祭は次のように祈って聖体拝領のための準備をします。この祈りは、単純に司祭のためだけではなく、聖体拝領に臨むすべての信者にとっても有益と思われます。

 生ける神の子、主イエス・キリスト、あなたは父のみ心に従い、聖霊の力に支えられ、死を通して世にいのちをお与えになりました。この聖なるからだと血によって全ての罪と悪からわたしたちを解放し、あなたの掟をいつも守り、あなたから離れることのないようにしてください。

 または、

「主イエス・キリスト、あなたの御からだと御血をいただくことによって、裁きを受けることなく、かえってあなたのいつくしみにより、心からだが守られ、強められますように。」

次回は第19回 「感謝の典礼」交わりの儀(4) 聖体拝領 です。


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