ミサを味わう(7)その1
田中 昇(東京教区司祭)
第7回 「ことばの典礼」(その1)
聖書朗読と答唱詩篇
教会は、ミサの二つの主要部、すなわち「ことばの典礼」と「感謝の典礼」の連続性を表現するために、歴史的に「二つの食卓」というイメージをしばしば用いてきました。神の民は、まず、ことばの典礼で公に朗読される「みことばの食卓」で養われ、その後、「聖体の食卓」で主の御体をいただきます。
聖体の秘跡は、まさにイエスの御体と御血そのものであり、キリスト信者の生活の「源泉と頂点」である一方で、聖書のみことばは聖体のうちにおられるイエスとのより深い内的な交わりに私たちを導いてくれます。
神があなたに語っている!
さて、第一の食卓であることばの典礼に注目してみましょう。ここでは聖書を朗読するからと言って、ことばの典礼が単に私たちに倫理的な生活を送るようにという勧告や霊的生活について省察することを促しているわけではありません。聖書は単に神について語っているのではなく、神ご自身の私たちへの語りかけなのです。それゆえ、ことばの典礼において、私たちは各々にそれぞれの仕方で語られる神ご自身のことばと出会うのです。神の民は、「聖なる者のことばによって集められる」(バル5:5)のであり、「信仰は、神のことばを聞くことによって生まれ、強められる」(ロマ10:17)からです。
これは、聖書が全く人間的なものではないということを意味しているのではありません。聖書は、人間によって、歴史のある時点において、特定の人間共同体に向けて書かれました。聖書の各書には、人間である著者の文体、性格、神学的見解、そして司牧的関心事が含まれています。しかし、聖書のことばもまた神による霊感が与えられています。「霊感」(inspiratio)とはギリシア語のテオプヌーストス(theopneustos)に由来し、「神が息を吹き込むこと」を意味します(2テモ3:16)。霊感を受けた聖書の諸書の中に、神は、神聖な著者たちの人間的なことばを用いて、ご自分の息を吹き込んで神的なことばとされました。こうして聖書のことばは、イエス・キリストご自身のように、完全に人的であり、完全に神的でもあります。第二バチカン公会議が説明したように、「神は聖書を作り上げるにあたって、ある人々を選び、彼らの才能と能力を利用しつつ採用したのです。こうして、神が彼らのうちで彼らを通して働くことによって、彼らは真の作者として神が欲するすべてを、またそれだけを書き物によって伝えたのです。」[1]
[1] 第二バチカン公会議公文書『神の啓示に関する教義憲章 Dei Verbum』 11項および『カテキズム』106項。
そもそも神のことばを聞くことは容易ならざることです。イスラエルの民は、神がシナイ山で契約のことばを自分たちに語られる前に、三日かけてその準備をしました。私たちは、ミサにおいて、開祭の儀すなわち十字架のしるし、回心の祈り、いつくしみの賛歌(キリエ)、栄光の賛歌(グローリア)、集会祈願によって準備して、この神のことばとの聖なる出会いを果たすのです。自らに十字架のしるしをし、自分は神のみ前にいるにはふさわしくないことを告白し、神のいつくしみを請い求め、神への賛美を歌った後、私たちは共に祈り、腰を下ろして心を落ち着けて、神が聖書にある自らの霊感を与えたことばを通して私たちに語ろうとされることに注意深く耳を傾けます。これは神と信じる者との人格的な出会いなのです。第二バチカン公会議が教えたように、「天におられる父は、聖書の中で深い愛情をもって自分の子らと出会い、彼らとことばを交わす」[2] からです。
[2] 『神の啓示に関する教義憲章』21項。
ことばの典礼の中で実際に起っていることの深遠な本質を正確に認識するために、私たちに向けて聖書を読み上げる朗読奉仕の果たす素晴らしい役割について考えてみる必要があります。ミサで朗読の奉仕をする者は、ただ単に聖書を人々の前で朗読するのではありません。ミサのとき、主は朗読奉仕者を道具として用い、その人を通してご自分のことばを会衆に宣べ伝えようとされているのです。このことを、ミサにおいて神のことばが私たちに伝えられるように、朗読奉仕者が人間である自分の声を神に貸しているのだと考えてみて下さい。神のことばを朗読するということは、信仰者にとってなんとすばらしい役務、重要かつこのうえなく名誉な働きであり特権ではないでしょうか。それゆえ朗読の役務は心を込めて丁寧に準備し、聞く人にみことばがしっかりと伝わるように細心の注意をもって遂行すべきなのです。決して慌てたり、不遜な態度であったり、信仰心を欠くような態度であってはならないのです。そもそも奉仕(servitio)の役目は、聞く人、信仰共同体への敬意の表れであり、神と人への愛の行いの表われでもあるのです。
霊的深読(Lectio divina)
キリスト教の伝統において霊的深読(lectio divina)[3]と呼ばれる、信仰者がみことばに向かう基本的な原則があります。これには4つの柱があります。聖書のみことばの的確な解釈に向かうように読むこと(lectio 読書)、聖書の意味と私たちに語り掛ける神の声を祈りのうちに深く理解すること(meditatio 黙想)、私たちのことばで祈り私たちにみことばを告げ知らせた主に応えること(oratio 祈り)、そして聞いて考え、祈って受けとめたみことばを人生において祝うこと、実践すること(actio 行動)です。
ミサにあずかる前、あるいはあずかった後に、聖書深読(lectio divina)の実践を通してミサの中で朗読される聖書の箇所をよく味わうことができるようになれば、ミサにおいて朗読されたみことばを信者としての実生活の中で、それを生きることができるようになります。キリスト信者は、主のみことばである福音を受け取り、それを告げるように招かれているのですから、受け取ったことを信じ、信じたことを宣べ伝え、宣べ伝えたことを自らも実行しなければなりません。
[3]霊的深読すなわちLectio divina(レクツィオ・ディヴィナ)は、一般的に「霊的読書」と訳されることが多いのですが、単に霊的な書物を読むということを意味しているのではありません。Lectio divinaは、本文に述べられるている4つの柱に鑑み、「霊的読書」と訳すよりは、その内容の奥深さを考慮して、むしろ「聖書深読」と訳す方が適切であると思われます。
第一朗読
第一朗読は、一般に(古来の慣習に従って、使徒言行録が読まれる復活節を除いて)旧約聖書から行われます。旧約聖書では神の啓示がイエス・キリストにおいて成就するのを待っているわけですが、その旧約聖書は、「真正な神の教え」として敬意をもって教会から受け入れられています。旧約聖書の中には、「私たちの救いの神秘が秘められている」のです。[4] それどころか、旧約聖書にあるイスラエルの民の話を知らずして、イエスと新約聖書を適切に理解することは不可能です。なぜなら、新約聖書は偉大な書の最終章、あるいは壮大な映画のクライマックスの場面のようなものだからです。旧約聖書が語るイスラエルの話にあるような過去の出来事の紆余曲折を理解すればするほど、新約聖書が語るイエス・キリストと彼のみ国の話の極みについてよりよく理解できるようになるでしょう。
[4] 『神の啓示に関する教義憲章』 15項参照。
ミサでの朗読に旧約聖書を含めることで、私たちは容易にイスラエルの話を汲み取り、それゆえ聖書の単一性をより明確に理解することができるようになります。[5] なぜなら、聖アウグスティヌスに共鳴しながら第二バチカン公会議が教示したように、神は「新約が旧約の内に秘められ、新約において旧約が明らかになるように賢明に計ったのです。というのは、キリストがその血をもって新しい契約を立てたとはいえ、旧約聖書の全文書は、(キリストの)福音の宣教で取り上げられ、新約聖書の中でその完全な意味を獲得、明示し、また逆に新約聖書を照らし説明している」からです。[6]
これらの朗読は、一般的に、その日に朗読される福音書に呼応しています。時として、この呼応が、旧約聖書の話と福音書の連続性あるいは対比を明確にしながら、その日の聖書朗読の主題を構成しています。いつも、これらの朗読箇所は、旧約聖書がいかにキリストと教会を予め示しているかを強調しています。
[5] 教皇パウロ6世、使徒座憲章『ミッサーレ・ロマーヌム Missale Romanum』 (1969年4月3日)。
[6] 『神の啓示に関する教義憲章』 16項。
たとえば過越祭のイメージは、聖体にまつわる朗読箇所と関連づけられています。またエジプトからの脱出の話は、洗礼に結びつけられています。このように、ことばの典礼の中で、聖書の美しい交響曲が鳴り響いているのです。
神に感謝
朗読の最後に、朗読奉仕者はラテン語原典ではVerbum Dominiすなわち「主のみことば」[7] と宣言します。日本語の新しい式文では「神のみことば」と言います。それは今しがた朗読されたことばが、他でもない主が語られたみことばであることの宣言を意味しています。ある神学者は、この宣言が大きな叫び声あるいはラッパの音のようであり、聖書を通じて私たちに神が語りかけられるのを聞くことは、私たち人間にとっていかに素晴らしいことであるかを思い出させてくれるものだと指摘しています。「この宣言、『神のみことば』は、全くの驚きをもって聞かれるべきです。神が私たちの間で語られることは至極当然だと思うのは、なんと常軌を逸したことでしょうか。私たちが驚きを表現して心の底からDeo gratiasすなわち『神に感謝』と答えて叫ぶとき、私たちは、まさにそれを当然のこととは思っていない、特別なものであると言っているのです。
[7]第一朗読だけでなく福音書も含めて、ラテン語規範版のミサにおいては、すべての聖書朗読の後に必ずこのことばが宣言されます。
神に感謝をささげるとは、歴史の中で神が示された慈しみと驚くべきみ業のゆえに、神に感謝の意を表すことです。旧約聖書(代上16:4; 詩42:5; 95:2)から新約聖書(コロ2:7; 4:2)に至るまで、それが聖書における礼拝の共通点です。「神に感謝」という独特なことばは、罪と死から解放して下さった神に感謝するため、パウロによって使われた表現です(ロマ7:25; 1コリ15:57; 2コリ2:14)。結局のところ、聖書全体はキリストによる救いのみ業を指し示していますから、キリストが十字架の上で勝利したことに喜び、感謝して、パウロが感謝の意を表わすために用いたのと同じ表現「神に感謝」をもって、私たちがこの典礼の中で朗読される聖書のみことばに答えることは実にふさわしいことなのです。
それから、私たちは畏敬の念をもって、今しがた私たちに語りかけられた神に感謝しつつ、着席して暫しの沈黙をもって答えます。黙示録において、沈黙は天上の礼拝の一部でした(黙8:1)。そして私たちが「これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた」(ルカ2:19)マリアのようになるために、典礼における沈黙は、たった今耳にしたみことばを黙想する時間を私たちに与えてくれます。典礼における「聖なる沈黙」と呼ばれるこうした時は、祭儀のそれぞれの行為を際立たせるのと同時に、その意味をより深く味わうために大変重要です。
答唱詩編
第一朗読で宣言された神のみことばを聞いた後、私たちは自らの乏しい人間のことばではなく、神ご自身の霊感を受けて書かれた聖書のみことば、特に詩編の書から取られた賛美と感謝のみことばをもって答えます。それゆえ詩編の朗誦は、朗読台からおこなわれるのです。詩編の朗唱(歌唱の方がより望ましいのですが)によって、朗読された聖書の箇所を黙想するように導いてくれる祈りの雰囲気を創出することができるのです。私たちは、至極当然のように、神を礼拝するときに賛歌を用います。パウロは、弟子たちに詩編を歌うように勧めていました(コロ3:16)。そのため答唱詩篇は、先に読まれた聖書の箇所と呼応するものが設定されているのです。
そもそも、典礼的礼拝に詩編を使用する伝統はかなり昔にまで遡ります。詩編の書は、神殿祭儀の際に、私的信心と公的礼拝の両方に用いられた150編からなる賛美歌の集成です。神殿の礼拝においては、共通の反復句(antiphona)を詩編の前後に歌い、二つのグループが交互に詩編の連節を歌っていたようです。詩編の書それ自体に、このことを示唆する箇所がいくつかあります。例えば、いくつかの詩編には、「イスラエルよ、叫べ」(詩124:1; 129:1)という呼びかけが含まれていますが、これは集会で応答するように会衆を招く添書き(ルブリカ)であるように思われます。これは、詩編136編にも見られます。この詩編は「恵み深い主に感謝せよ」という招きで始まり、その後に続く節は神に感謝するその様々な理由を列挙しています。これらの節はそれぞれ、「ただひとり驚くべき大いなるみ業を行われる方に」あるいは「荒れ野を通ってイスラエルの民を導かれた方に」のような起句で始まります。そして、それぞれ「そのいつくしみはとこしえに絶えることがない」という同じ反復句で締めくくっています。モチーフと応答の間を行ったり来たりするやり取りは、先唱者によって朗唱される先唱句とそれに対する応答としての会衆からの反復句(答唱句)から構成される一種の典礼的対話であることを示しています。
このようなやりとり、いうなれば「交唱的な」動きは、答唱詩編だけではなく、ミサ全体を通じて対話句(対句)の表現に見られます。これは、聖書の至るところにも同様の表現が見られます。モーセは、シナイ山で契約を結ぶ儀式の中で、主のことばを民に語り聞かせ、彼らは皆「一斉に」典礼的に答えて、「私たちは、主が語られたことをすべて行います」と言っています(出19:8)。エズラが民に律法の書を読み聞かせたとき、彼は主をたたえ、民はそれに「アーメン、アーメン」と答えました(ネヘ8:6)。黙示録の中では、ヨハネに天上の典礼の幻が現れ、何千もの天使たちが、「屠られた小羊こそ、力、富、知恵、権威、誉れ、栄光、そして賛美を受けるにふさわしい方です」と言って、主を称える有様をヨハネは目にしています。それから、すべての被造物は「玉座に座っておられる方と小羊に、賛美、誉れ、栄光、そして力が、世々限りなくありますように」と答えます。すると、4つの天使のような生き物はそれに答えて、「アーメン」と返しています(黙5:11-14)。
賛美とそれに対する肯定的な返答というこのような天からの叫びは、天使と聖人たちが神のみ前で畏敬に満たされながらも喜びに溢れていることを表現しています。明らかに、ミサの典礼的対句は、礼拝に相応しい聖書に基づく典型、さらには礼拝に適う天的な原型を模倣しています。それゆえ、初期キリスト信者がこの様式を採用し、彼らが神を礼拝するときにそれを取り入れたのも不思議ではありません。いずれにしても、早くとも3世紀には、詩編はミサの中で朗唱されており、先唱者が詩編を歌い、会衆が応答し、しばしば詩編の最初の一行を繰り返していました。そうした実践は、古代イスラエルの礼拝で詩編が使用されていたその方法を反映しているのかもしれません。これらがすべて、今日の答唱詩編の基盤になっています。
第二朗読
第二朗読は、新約聖書の中から、つまり使徒の書簡、または使徒言行録、あるいは黙示録から行われます。その朗読箇所は、しばしば第一朗読や福音とは関係なく選ばれることがあるのですが、これらの新約聖書の記述は、イエス・キリストの神秘、その救いのみ業、そして私たち信仰者の生の意味を熟考させるものです。またこの第二朗読は、キリストを信じる私たち現代のキリスト者の生活における信仰実践上の適応を導き出してくれるもので、これを通じて、使徒たちは私たちに「キリストを身にまとい」、罪を拒否するよう勧告し、また喜びと感謝、相互愛、共同体での奉仕の務めへと私たちを招いているのです。
次回は第7回 「ことばの典礼」(その2)です。
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