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ミサを味わう(20)最終回

田中 昇(東京教区司祭)

第20回 「感謝の典礼」派遣と祝福


祝福
 
ミサ聖祭の終盤、散会する前に、司式者である司教[1] あるいは司祭は会衆に向かって、「派遣の祝福」をことばと十字架のしるしとともに与えます。祝福を受けた信者は、再び、自らの生活の場に戻っていくことになります。祭儀にあずかった人々は、聖体拝領で受けたキリストの御体を糧にして新たな生活へと祝福とともに送り出されていきます。

 ところで祝福は、送る側と受け取る側の二者があって初めてその間で成立するものです。聖書に目を向ければ、祝福は、祝福する神と祝福される被造物[2]との間で交わされていることがよく分かります。つまり祝福は、二者の間でやりとりされる一種のコミュニケーションであると言えます。創世記の初めに描かれている天地創造の場面で、神は最初の被造物である水の中で生きる魚類と天空を舞う鳥類を祝福されています(創1:20-22)。次いで、地上に生きる動物や家畜を創られます(創1:24)。そして最後に、私たち人類を創られました(創1:27)。しかし神は単にそれらを創造されただけではなく、創られたものを善しとして祝福しておられるのです(創1:22, 28)。神が被造物に与えられる祝福の目的は、「産めよ、増えよ、満ちよ」(創1:22, 28)という言葉に示されています。神が祝福を通してそれを受け取る側に願っていることは、「繁栄」であるということです。創られたものが豊かさを享受して栄え、途絶えることなく子々孫々までも末長く増えて行くようにとの神の切なる思いが祝福に込められているわけです。特に神がお選びになったアブラハム(創12:2-3)、その一族の後継であるイサク(創26:3-4)とヤコブ(創28:13以降)においては、数え切れない子孫でアブラハムの家が満たされることこそ祝福の結果であったことが顕著に伺えます。また、家が栄えて行くためには、人間が末永く生きていける環境に置かれているということは大変重要なことです。人間の生命維持に欠かせない家畜の増殖(上記の通り)、それと地から得る継続的な穀物の実り、つまり「豊穣」も同様です(レビ25:21; 申28:8)。従って、祝福にはこれから先に善なるものを希求し、明るく開かれた未来を志向する要素が強く現れてきます。


[1] 司教も司祭が唱えるのと同じ祝福の文言を唱えますが、司祭が十字架のしるしを一度切るのに対し、司教は三度切ることになっています。この祝福に関して、かつて「司教掩祝(えんしゅく)」と呼ばれていた教皇を含めた司教たちにのみ留保された祝福の定式が用いられることがあります。それは次の通りです。今回、新しい日本語の典礼文において以下の通り正式な式文が発表されました。
司教: Sit nomen Domini benedictus. ― 会衆: Ex hoc nunc et usque in saeculum.
(主のみ名がいつもたたえられますように)    (今よりとこしえに)
司教: Adiutorium nostrum in nomine Domini. ― 会衆: Qui fecit caelum et terram.
(主のみ名はわたしたちの助け)    (主は天地の造り主)
司教: Benedicat vos omnipotens Deus, Pater ☩, et Filius ☩, et Spiritus Sanctus ☩. ― 会衆 : Amen.
(全能の神、父と子と聖霊の祝福がみなさんの上にありますように) (アーメン)
教皇がこの定式を用いて、日曜日の正午に行われるお告げの祈り最後に、集まった人々を祝福していることはよく知られています。実は、この祝福の文言も、ラテン語のブルガタ訳聖書の詩編に根拠を持つもので、ラテン語原典では一言一句違わず引用されています。最初の一行目は詩113 :2から、二行目は詩124 :8からです。

[2] 祝福される側すなわち祝福を受け取る側を「被造物」としたのは、人間に限られているわけではないからです。

 このように、祝福することができる主体はあくまでも「神」であって、人間ではありません。[3]ラテン語規範版の表現を見れば分かる通り、司式者は参加している会衆に向かって「全能の神、父と子と聖霊があなたがたを祝福して下さいますように」と祈ります。それは、ミサを司式する司教や司祭にキリストの祭司として民に祝福を与える権能が付与されているからですが、このことは、民数記6章22-27節からはっきり分かるように、かつてユダヤの民の中において、民に「神の名を置くことによって」祝福を与える役目を祭司たちがその職権として担っていたことに関係しています。つまり、神はイスラエルの民に祝福を与えるとき、それを行う代理(仲介)を祭司アロンにゆだねていたのです。[4]もし教会におけるミサ聖祭で、司教あるいは司祭である司式者が神からの祝福を祈るのであれば、それは祝福を与える神とそれをいただく会衆との間の代理者・仲介者として彼らが立てられているからということに他なりません。


[3] 確かに祝福の主体は神ですが、しかしヘブライ語の原文では「祝福する」という動詞の受動態を用いて、「主(神)は祝福されますように」(創24:27; 出エジ18:10; ルツ4:14)と言われているところがあります。これは字義通り神が祝福されるという意味ではなく、人間の側からの神への称賛、賛美を意味しています。そのため日本語では「主(神)は(ほめ)たたえられますように」と訳されるのです。

[4] モーセは神から告げられて、神のメッセージをアロンに伝えています。それは、アロンが神とイスラエルの民の間の仲介者(代理者)となって、彼が神の祝福を民に与えるという内容です。それゆえ、神の民への祝福は、「祭司による祝福」と言われます。

以上の考察をふまえた上で、「派遣の祝福」をどのように理解したらよいでしょうか。一般謁見の場で[5]、教皇フランシスコが見事な見解を示してくれました。ミサ聖祭に参加した信者は皆、聖体によって「養われた者、豊かさをいただいた者、栄えにあずかった者」として、得たものを生活の場で表すように招かれています。彼らは司式者の祝福によって自分たちの生活の場である家庭、職場、学校に送り出されていきます。そこで、彼らは遣わされる場で「豊かさ」と「栄え」を福音宣教によって多くの人々に証しながら伝えて行く「使命」(Missio)を果たすわけです。復活され天に昇って行ったキリストも、後に全世界に宣教に出かけていく弟子たちを、手を上げて祝福されました(ルカ24:50-51)。それゆえ教会は、ミサの最後に、頂いた恵みを伝えるように、宣教に専心するようにと、貴い使命を受け、それぞれの生活の場に派遣されていく信者を祝福するのです。


[5]教皇フランシスコは、2018年の一般謁見において「ミサを味わう」というテーマで連続講話を行っていましたが、2018年4月4日がその一連の講話の最後で、キリスト者として信仰を証しすることの重要性を強調されました。

新たな派遣
 
これまで聖体拝領が神と信じる民の婚礼の祝いのようなものだと説明してきましたが、婚礼の祭儀は花嫁と花婿の新しい門出を祝福する儀式によって終えられることは多くの人が理解していることでしょう。誠実な誓いをもって夫婦の絆を固め、深い感動を胸に、共に祈り、教会から祝福を受けた夫婦が晴れやかな表情で祭壇を後にするように、私たちも心新たに出発する時、それがミサの閉祭の儀です。それはまさに出立、派遣なのです。

 古代世界では、慣習的に、儀礼的な散会をもって集会を締めくくっていました。初期キリスト信者たちは、同じような終え方を彼らの典礼的な集会に取り入れる必要性を感じました。そこで四世紀以降、その役割を果たすために、Ite, Missa est(イーテ、ミッサ エスト)というラテン語の言い回しが今日まで使われてきました。これは、字義的には簡潔に「(あなた方は)行きなさい!終了/解散・派遣です!」という意味で、それが日本語のミサ式文では、「感謝の祭儀を終わります。行きましょう(主の平和のうちに)」と訳されています。原文に沿って言えば、これは二人称複数形の命令形であるため力強く派遣する宣言となっていると言えます。もちろん「(あなたがたは)主の平和のうちに行きなさい」という表現それ自体は実に聖書的です。欧米をはじめ多くの現代語の式文も「平和のうちに行きなさい」となっています。

ミサに与った者はじっとしていてはいけないのであり、またそうしてはいられないはずなのです。聖パウロの人生がそうであったように、何が待ち構えていようと、キリストと出会った者は熱意をもって出かけて行く、それがキリストの弟子にほかなりません。正気を失ったような顔つきや疑心暗鬼な表情、堅苦しい姿勢の人間が本当に福音の喜びを伝えるという使徒的な務めが果たせるでしょうか。素晴らしい宴にあずかっても、なお以前と変わらず、生気に欠け、黙っていることなどできないはずです。さまざまな感動的な体験が人を動かすように、その良さを他者に語らずにはいられないように、真にミサの力をいただいた人間なら漫然としていることなどあり得ないのです。

 この散会について最も重要なことは、この典礼全体がこの最後の一行にあるMissa(解散・派遣)ということばから「ミサ」と名付けられているということです。このことは、いかにミサが究極的には「外に向かって送り出すこと」として理解されるべきか示しています。それは『カテキズム』が説明しているように、聖体祭儀が「ミサ聖祭」(Missa)と呼ばれるのは、「救いの神秘の実現である典礼が、信者が日常生活の中で神のみ旨を果たすようにと願う信者の派遣(missio)で終了するから」です。 

 イエスは、使徒たちに語りました。「父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす」(ヨハ20:21)と。御父は、御子が私たちの罪のために死んで、その神の命に私たちをあずからせるため、彼を世にお遣わしになりました。私たちが見てきたように、イエスの受難と死そして復活という過越の神秘全体が、聖体祭儀という典礼の中で私たちに現わされました。それで、私たちはイエスの生涯とその使命、その神秘により深く結ばれることができるのです。私たちが聖体祭儀によってイエスにより深く結ばれれば結ばれるほど、私たちを取り巻く世界の中で、私たちはイエスの命と愛、平和と喜びをより一層広げて行くことになります。キリストはこうも教えました。「あなたがたは行って、すべての民を私の弟子にしなさい」(マタ28:19)と。
 つまり、この典礼の最後の一行によって、私たちは目的なく散会させられるのではないと知るべきです。それは、使命を伴う散会なのです。それは、キリストの諸神秘を世界にもたらすために、世に真の命に与らせるために、主が神の民を派遣するということを意味しているのです。信仰の恵みを味わったのなら、恵みのうちに生きるその喜びを伝えないではいられないはずです(1コリ9:16参照)。

 このように「教会は、その本性から宣教的であり、福音宣教の業は神の民の基本的な務め」[6]なのです。ですから、もしキリスト信者が、嬉々として「出かけていく」ことに何らかの躊躇いがあるというのであれば、その人には何か根本的なこと、つまり真の信仰体験、福音の喜びの経験そのものが欠如しているのです。

 正教会の神学は、伝統的に我々のミサでの体験を「諸天の上げられること」だと表現します。聖体拝領の後、正教会の典礼では、「我等、すでに真の光を観、天の聖神を受け、正しき信を得て、分れざる聖三者を拝む、彼我等を救い給えばなり・・・・・・」と歌われます。また正教会においては、ミサにあずかることをイエスの弟子たちの「ダボル山」での経験と重ね合わせて説明されることもあります。[7] 私たちは、ミサの中で旧約の律法と預言(モーセとエリア)を完成させ、エルサレムで新たな過越(exodus)を完遂される栄光に輝くイエス(ルカ9:29-33)を目の当たりにして「ここにいることはすばらしいこと」(ルカ9:33)だと叫んだ弟子たちと同じ体験をしたのです。そして御父に「彼にこそ聞き従いなさい」(ルカ9:35)と命じられてその山から降りる私たちは、主の神殿から出て、この世の只中へとその神秘的な体験を胸に出かけて行くわけです。それは三位の神との交わりの体験、真の喜びと平和である神の国の体験を現実社会の只中で広げていくためです。私たちは神の神秘の証人として出かけていくのです。つまり私たちの宣教の業とは、私たちの個人的な考え方や主義主張を言い広めることでもなければ、一時的な教会の権威者から指示された何らかのキャンペーンに漫然と参加することでもありません。

 アウグスティヌスは、ミサを祝った私たちは「それぞれ自分の家に帰って行きます。私たちはともに光を浴びて嬉しかったのです。大いに喜び、大いに楽しみました。今、互いに別れて去って行きますが、主から離れることがないようにしましょう」[8]と教えています。聖霊の交わりの中でキリストの愛の秘跡にあずかった信仰者は、聖堂を出て以前と何ら変わらぬ俗な生き方に戻っていくのではなく、この世にあって信仰の光を輝かせる聖なる生き方を通して[9]、つまり主と共にある生き方によって、積極的に福音を証するため、つまり信仰の神秘の体験を胸に世を福音化するために派遣されていくのです。[10]


[6] 第二バチカン公会議『教会の宣教活動に関する教令』2項および教会法第781条を参照。
[7] A. シュメーマン『世の命のために』(新教出版、2003年)59-60頁参照。
[8] アウグスティヌス『ヨハネ福音書注解』(35, 8-9; CCL 36, 32-323)。
[9] 『ディオグネートスの手紙』5−6章(SC 33bis, 62−66)参照。
[10] 新しい日本語の式文には、選択肢として「行きましょう、主の福音を告げ知らせるために」、あるいは「平和のうちに行きましょう、日々の生活の中で主の栄光をあらわすために」といった応答の式文が備えられています。

おわり

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