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ミサを味わう(7)その2

田中 昇(東京教区司祭)

第7回 「ことばの典礼」(その2)


アレルヤ唱と福音朗読
 
聖書全体が霊感を受けていることは周知の通りですが、第二バチカン公会議は、さらに当然のこととして、その中でも福音書が「きわめて卓越したもので・・・それは、受肉したみことばであるわれわれの救い主の生涯と教えについてのいとも優れた証言だから」と教えました。[1] ミサは、この福音の卓越性を反映しています。いかに典礼が、福音朗読に特別な敬意を払っているかに注目して下さい。この朗読の間、司祭、助祭、そして会衆は、他の聖書箇所が朗読されている間にはしなかったことを行います。


[1] 『神の啓示に関する教義憲章』 18項。

起立
 
第一に、会衆は福音朗読において今まさに告げられようとしている主イエスを迎えるために起立します。起立するとは、かつてエズラが律法の書から朗読したとき、その場に集められたユダヤ人たちがとった敬虔な姿勢でした(ネヘ8:5)。イエスが福音において私たちに語られることに心して耳を傾けるとき、この姿勢によって私たちがイエスのことばを聞こうと敬意を払って用意できていることを示しながら、彼を迎えることは適切なことです。

アレルヤ
第二に、会衆はヘブライ語の「ハレル・ヤー」つまり「Jahwehをたたえよ」・「主をたたえよ」という喜びを意味するヘブライ語表現「アレルヤ」を唱えるか歌います(西欧諸地域ではHを発音しないためアレルヤと発音されています)。それは、多くの詩編(詩104-106; 111-113; 115-117; 146-150)の最初または最後に見られる表現で、天上の天使がこの表現を用いて、救いのみ業のゆえに神をたたえ、小羊の婚宴におけるキリストの到来をその民に告げました(黙19:1-9)。この喜びに満ちた賛美は、福音書という形態において私たちのもとに来られるイエスを歓迎するのにふさわしい方法です。喜びにあふれる「アレルヤ」は、悔い改めの期間である四旬節には用いられませんが、欧米では「アレルヤ」を「おおキリスト、あなたに栄光と賛美」[2]あるいは「終わりなき栄光の王、主イエス・キリスト、あなたに賛美」[3]など他の言葉に置き換えた「詠唱」が用いられています。


[2] Glory and praise to you, O Christ!(英語)、Lode e onore a te, Signore Gesù!(イタリア語)

[3] Praise to you, Lord Jesus Christ, king of endless glory!(英語)、Lode a te, O Cristo, re di eternal Gloria!(イタリア語)

行列
 
第三に、アレルヤ唱の間、助祭あるいは司祭は、福音書を祭壇から朗読が行われる朗読台へと運びながら、内陣を行列し始めます。主の臨在を指し示すろうそくと香炉を運ぶ侍者たちがこの行列の中で福音書に伴うことで、まさに今から起ころうとしていることの荘厳さをさらに強調します。『ローマ・ミサ典礼書の総則』は、朗読聖書とりわけ朗読福音書は、典礼において神のことばを告げる際の「天上のものの真のしるしであり象徴である」ため、特別の尊敬をはらうべきものとして美しさや装飾で特徴づけるように教えています(349項)。また朗読福音書は、荘厳司教ミサにおいては、司教がそれによって会衆に祝福を与えるみことばであるキリストの神聖さを示す象徴とされています(175項)。

準備の祈り
 
福音朗読という神聖な務めに自らを備え、司祭は次のように沈黙のうちに祈ります(助祭が福音を朗読する場合は、行列を開始する前に祝福を求める助祭に向かって主司式司祭が同じ祈りを唱えます)。
Munda cor meum ac labia mea, omnipotens Deus, ut sanctum Evangelium tuum digne valeam nuntiare.
全能の神よ、聖なる福音をふさわしく宣べ伝えるために私の心も口も清めて下さい。
 この祈りから、預言者イザヤの口が、主のみことばをイスラエルに告げる前に、いかに清められる必要があったかを私たちは思い起こします。天使が燃える炭でイザヤの口に触れると、彼はその罪を赦され、それから預言職を始めるように召されたのです(イザ6:1-9参照)。しかし私たちがミサで行うキリストの福音の宣言、つまりキリストの預言職の実践は、イザヤのそれよりはるかに偉大なことではないでしょうか。

十字架のしるし
 
また以前と同じ挨拶の対句(「主はみなさんとともに」、「またあなたとともに」)の後、司祭または助祭は(たとえば「ヨハネによる福音」と言って)福音を朗読することを会衆に告げ、福音書の上に、そして額、口、胸に十字架のしるしをします。会衆も同じように自らの体に三度十字架のしるしをするのですが、これは、私たちの思い、ことば、行いを主にささげ(回心の祈りの目的)、福音書の中にある主のことばが常に私たちの知性と口の上に、また心の中にあるように願う儀式なのです。

イエスとの出会い
 
この儀式のすべて、すなわち起立、アレルヤ唱、行列、ろうそく、献香、三度の十字架のしるしは、私たちがミサの中で最も神聖な瞬間に近づいていることを知らせるものです。そして遂に、その最も神聖な瞬間、福音が朗読されるときが訪れます。福音書の記事は、単なる過去の物語、つまりイエスに関する遠い記憶の記録ではありません。聖なる書は神の霊感を受けているのですから、よき知らせ(福音)はキリストの生涯にまつわる神ご自身のみことばで成り立っています。教会が教えてきたように、「聖書が教会で朗読されるときには、神ご自身がその民に語られ、キリストは、ご自身のことばのうちに現存して福音を告げられる」のです。象徴的な動作として、福音朗読に際して、司祭ないし助際は、手を閉じて「主はみなさんとともに」と宣言することとされています(『ローマ・ミサ典礼書の総則』134項)。ここでは、キリストに代わって司祭や助祭が語るのではなく、宣言されている福音そのもののうちに主が現存されていることが示されています。福音朗読前の対句「○○○による福音」(Lectio sancti Evangelii secundum…)―「主に栄光」(Gloria tibi Domine)は、宣言された福音の中にキリストが現存していることの確信を示すものと解釈されています。

 したがって、ミサにおける福音の宣言は、イエスの生そのものを私たちに根本的な仕方で現存させるものなのです。私たちは、イエスがパレスチナの地でかつて語り行ったことについて、まるで他人事のように、ただ会衆席で聞いている傍聴人ではありません。私たちは、イエスについての報道、あるいは一世紀の有名な宗教的人物についての講義を聞いているのではありません。キリストは、福音書に記された神の霊感を受けたことばによって、私たち一人ひとりに個人的に語りかけておられるのです。
 例えば私たちは、イエスが人々に悔い改めて自分に従うよう呼びかけておられることについて聞くだけではなく、イエスご自身が私たちに「悔い改めよ。天の国は近づいた」(マタ4:17)、「私に従いなさい」(マコ2:14)と言われるのを耳にしているのです。
 私たちは、イエスが姦通の罪で捕えられた女性を赦す話を単に聞いているだけではありません。それは自らが犯した罪を悲しんでいる私たちに、イエスがまるで「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはいけない」(ヨハ8:11)と語られるのを聞いているのと同じことなのです。

 福音朗読後は、司祭または助際は「主のみことば」(Verbum Domini)と宣言し、会衆は「キリストに賛美」(Laus tibi Christe)と応答しますが、これも福音の宣言の中に主が現存されることを示す表現です。つまり今宣言されたみことばは、ほかでもない主がまさに今この私に語られたことばなのだということの確認なのです。

福音朗読後の祈り
 
福音書を朗読した後、司祭(助祭)は次の祈りを沈黙のうちに捧げます。
 Per evangelica dicta deleantur nostra dlicta すなわち、「福音の言葉によって私たちの過ちが消し去られますように」と。これは使徒言行録3章19節にある聖ペトロの勧告に由来します。私たちがみことばを聞き入れることで、私たちの罪が消し去られるように、私たちがこの世やエゴによって考え行動することをやめ、みことばを理解し御心にかなう善なる生き方に進めるよう祈ります。

次回は第8回 「ことばの典礼」(その3) 説教 です。
 


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