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ミサを味わう(6)その3

田中 昇(東京教区司祭)

第6回 「いつくしみの讃歌」と「栄光の讃歌」(その3)


聖書のことばの寄せ集め(モザイク)

神なる主、天の王、全能の父なる神よ。
わたしたちは主をほめ、主をたたえ、
主を拝み、主をあがめ、
主の大いなる栄光のゆえに感謝をささげます。

 栄光の賛歌の残りの部分も聖書に起源を持つことばで満ちています。事実、キリスト教初期にまで遡るこの祈りを、神にちなんだ聖書的呼称や称賛を表す一般的な聖書的表現の寄せ集め(モザイク)であると説明する人もいるでしょう。同様に、聖書を頂いているキリスト信者は誰でも、この祈りのあらゆる部分において、聖書のことばの繰り返しを耳にします。
 実際、栄光の賛歌の祈りをささげるキリスト信者は、救いの歴史を通じて現れた偉大な聖人たちに、さらには天上の天使たちや聖人たちに加わり、神の救いのみ業とその栄光のゆえに彼らとともに神を褒め称えるのです。

 この栄光の賛歌の祈りは、三位一体の様式に従っています。それは、先ず「全能の父なる神」、また「天の王」(神にちなんだ2つの一般的な聖書的呼称)と呼ばれる御父への賛美で始まります。神は、しばしば「全能の神」(創17:1; 出6:3)、あるいは「全能の主」(バル3:1; 2コリ6:18)、あるいはただ単に「全能者」(詩68:15; 91:1)と呼ばれます。ヨハネの黙示では、天上の天使たちと聖人たちが、何度も繰返して神を「全能者である神なる主」(黙4:8; 11:17; 15:3; 19:6)と賛美しています。
 同様に栄光の賛歌は、神を「天の王」と称えていますが、これも神が全能であることを指し示す表現です。聖書全体において、神は王であり(詩98:6; 99:4; イザ43:15)、イスラエルの王(イザ44:6)、栄光の王であり(詩24:7-10)、すべての神々にまさる偉大な王である(詩95:3)とさえ表現されています。栄光の賛歌の中で、神を「天の王」と呼ぶとき、私たちは神を「王の中の王」であると認め、私たちが神の支配を生涯にわたって受け入れることを表明するのです。

最高の父
 
私たちは、栄光の賛歌の中で、主を「全能者」または「天の王」と呼んで、神が全能なる力をもって天と地を支配する方であるがゆえに神を称えているのです。さらに、『カテキズム』が説明する通り、主が全能であることは、父性ということにおいて理解されなくてはなりません。私たちは、主を「神なる主、天の王、全能の父なる神」と呼びます。しかしただ単に神の力と神が王であることを口にして、それで終わるわけではありません。さらに続けて、この方を私たちの「天の父」として、その極みまで賛美するのです。もし神が単に無限の力をもつ王であるだけだったら、自分のやりたいことを何でも行うために、思うがままに自らの権能を行使する独裁者なのではないかという印象を受けかねません。しかし、神は『カテキズム』が称する「父としての全能」さ[1]という属性をもっておられます。良き父親が子どもたちには最も善いものをまさに望むように、神の力は、つねに私たちのために最も善いものを捜し求め、また私たちすべての必要を備えて下さる愛に満ちたご意志と完全に調和しているのです。[2]

 私たちの神がいかに善なる方であるかを認めることは、神は無限の力を持っておられながら、その善性を私たちと分かち合うことを自由に選ばれる愛に満ちた父であると理解することにほかなりません。私たちはその神を礼拝し、感謝と賛美をささげざるを得ないのです。愛する者同士がお互いに様々な機会に「愛しているよ」と何度も語り合うように、私たちも神に向かって、「あなたを賛美し、あなたを称え、あなたを崇め、あなたの大いなる栄光のゆえに感謝します」と言って、私たちの神への愛を表明しているのです。最も興味深いのは、その栄光ゆえに神を称えている最後の一行です。これは純粋な賛美の表現です。つまり、私たちのために神が行われる業ゆえに、私たちは神を愛するのではなく、神の栄光ある善性と愛ゆえに、すなわち神が神そのものであるがゆえに私たちは神を愛しているということなのです。


[1] カテキズム270番

[2] 「神にあっては、能力と本質、意志と知性、知恵と正義はただ一つの同じものなので、神の正しい意志やその賢明な知性にないことは、神の能力にもありえないのです。」(カテキズム 271番)

3つの場面からなる物語

主なる御ひとり子イエス・キリストよ、 神なる主、神の小羊、父のみ子よ、 世の罪を取り除く主よ、いつくしみをわたしたちに。

世の罪を取り除く主よ、わたしたちの願いを聞き入れてください。

父の右に座しておられる主よ、いつくしみをわたしたちに。

 続く栄光の賛歌の部分は、ある意味でキリストの物語を語っています。それは、3幕構成のようにキリストの救いのみ業の物語を、1)「彼の到来」から、2)「あがないの死」へ、また3)「勝利の復活と昇天」へと移行しながら要約してい流と言えます。

 「第1幕」において、イエスは「御父の子」であり「ひとり子」と呼ばれています。それはイエスが神の子であることを指摘する新約聖書の様々な文言に立脚しています(例えばヨハ5:17-18; 10:30-38; 2コリ1:19; コロ1:13; ヘブ1:1-2)。第四福音書は、「受肉」すなわち神の御子が人となった神秘に私たちの注意を集めていますが、これらの称号は、特にこの福音書の序文にある劇的なひとくだりを反映しています。ヨハネは、神の永遠の「みことば」、初めから御父とともにおられ創造の業の起源であった永遠の「みことば」について美しくも詩的に熟考しながら、自らの福音書を始めています(ヨハ1:1-4)。この熟考の最後で、ヨハネは驚くべきことに、この神の永遠の「みことば」が「肉(人)となり、私たちの間に住まわれた(宿られた)」ことを告げています(ヨハ1:14)。万物の神である方が実際に肉体、すなわち人性をまとわれたのです。キリストの生涯の証人であるヨハネは続けて、神の「みことば」であるイエスのことを「私たちはその方の栄光を見た。それは父の(みもとから来られた)ひとり子としての栄光であって・・・」(ヨハ1:14)と言っています。

 したがって、私たちが栄光の賛歌の中でイエスを「御ひとり子」と呼ぶとき、イエスを単に教師や使者、あるいは神から遣わされた預言者と認めているわけでは無いことに気づく必要があります。ヨハネの豊かな神学的用語を使って、私たちは、彼とともに、肉となって私たちの間に住まわれた神の子であり永遠のみことばであるイエスを賛美しているのです。

小羊、王
 
栄光の賛歌の「第2幕」では、イエスのことを「神の小羊」と呼んでいますが、その表現は栄光の賛歌の内容の筋書きをキリストのあがないの使命へと前に進めていきます。このことから、黙示録に描かれている罪と悪魔に対する小羊の勝利(黙5:6-14; 12:11; 17:14)、そして天使たちと天の聖なる者たちによる小羊への礼拝(黙5:8, 12-13; 7:9-10; 14:1-3)が思い出されます。栄光の賛歌の中で、私たちはイエスをこの称号を用いて呼び、そうして黙示録の中で啓示されている小羊の天上での礼拝に私たち一人ひとりが加わっていくのです。

 栄光の賛歌はまた、「神の小羊・・・(あなたは)世の罪を取り除く」と言ってイエスに呼びかけています。この一文では、ヨハネ福音書において、洗礼者ヨハネが自分に近づいて来られるイエスを初めて見たときに、彼が語った預言的なことばを私たちは繰り返しているのです(ヨハ1:29参照)。これらのことばは、イエスが新しい過越の小羊であることを啓示しています。つまり、彼は私たちの罪のために十字架上で自らの命をささげる方なのです。エジプトでの最初の過越の夜、イスラエルを死から助けるためにまさにいけにえとされた小羊のように、イエスは、全人類を罪から生じた死の呪いから救うため、カルワリオ(ゴルゴタ)の丘でいけにえとされた新しい過越の小羊なのです。

 栄光の賛歌は、最後の「第3幕」で、今や天において自ら所有する権威の比類なきところに座しておられるイエス、すなわち「父の右に座した方」を賛美するように恭しく私たちを導きます。この表現から、私たちは、天に昇って「神の右の座に着かれた(神の右に座られた)」(マコ16:19)イエスについて語るマルコ福音書の記述を思い起こします。聖書において、神の右の座とは「権威ある座」のことを言います(詩110:1; ヘブ1:13を参照)。
 こうして、実に、栄光の賛歌の中で、私たちは天と地に及ぶキリストの支配ととこしえに続く彼のみ国(ダニ7:14)の証人となるのです。そして私たちは、「私たちの祈り、心からの願いを聞き入れて下さい」、「いつくしみを私たちに(下さい)」と謙虚にキリストに願うのです。

 イエスの使命全体が、いかに栄光の賛歌のこの部分に集約されているかに注目して下さい。私たちは、御子の受肉から彼の過越の神秘と、彼が天に座しておられることへと移行していきます。すなわち、肉となり私たちの間に住まわれた父の「御ひとり子」イエスを賛美することから、ご自分をいけにえとすることによって世の罪を取り除く「神の小羊」である彼を賛美することへ、さらに罪と死に勝利して「父の右の座に着いておられる(父の右に座しておられる)」がゆえに彼を賛美することへと移行していくのです。このように、救いの歴史の頂点がまさに栄光の賛歌のうちに要約されているのです。

いわば反体制文化的な祈り

ただひとり聖なるかた、すべてを越える唯一の主、 イエス・キリストよ、
聖霊とともに父なる神の栄光のうちに。 アーメン。

 キリストの救いの使命についての叙述を受けて、栄光の賛歌は、つづいて(あなたは)「唯一の聖なる方」、「唯一の主」、そして「唯一のいと高き方」という3つの聖書的呼称を唯一solusという限定的表現とともに三度繰り返し用いてイエスを賛美します。旧約聖書の表現にちなんでイエスを唯一の「いと高き方」と呼ぶことで、あらゆる他の「神々」に優る至高の存在としての神という意味に依拠する旧約聖書特有の呼称が思い起こされています(創14:18; 詩7:18)。新しい日本語の式文では「全てを超える唯一の主」とやや意訳的な翻訳となっています。

 同様に、旧約聖書では、一般に神を「イスラエルの聖なる方」と呼んでいるのですが、この場合、一方で他に全く類を見ない神の聖なる本性を表現し、他方でこれとは全く異なる、最高に聖なる神とイスラエルとの特異で親密な関係を表現しています(詩71:22; 箴9:10; イザ1:4; ホセ11:9-11)。新約聖書は、イエスが聖なる方であることを啓示しています。たとえば黙示録の3章7節で、イエスはご自身のことをこの神の称号「聖なる方」をもって言及しており、黙示録の16章5節では、天使が彼を同じ称号で呼んでいます。多くの弟子たちが聖体についてのイエスの教えのことで彼から離れていく中、ペトロはイエスに忠実であり続け、彼のことを「聖者」(聖なる者、聖なる方の意味)であると認めています(ヨハ6:69)。悪霊でさえも、イエスを「聖者」であると認識しています(マコ1:24; ルカ4:34)。

 おそらくここで最も顕著なくだりと言うべきは、「あなたは唯一の主」、「あなただけが主である」という表現です。聖書に出て来る「主」(ギリシア語でKyrios)は、神に因んだ呼称です。しかし古代ローマ世界では、「主」は皇帝に付与された呼称でした。ですから、他方でイエスと神を結びつけて、彼のことを「主」と呼ぶことは(1コリ8:6; フィリ2:11)、極めて反ローマ帝国主義的なことでもあるのです。新約聖書は、「イエスが主」であって、カエサル(ローマ皇帝)ではないと宣言しているのです(ルカ2:10)。古代ローマ世界で、イエスだけが主であると言った者は、ローマ皇帝にとって敵とみなされたと思われます。事実、多くの初期キリスト信者たちは、その信仰のゆえにローマ皇帝あるいはローマの神々への礼拝を拒否したとして命を落としました。栄光の賛歌のこの箇所は、たとえば仕事にしろ、財産にしろ、経済的な安定にしろ、名声あるいは家族、この世の何か他のものにもまして、イエス・キリストとその掟に忠実であることを、今日、私たちに要求しています。「あなただけが主です」と。これはまさに信仰宣言に他なりません。

 栄光の賛歌は、三位一体の第3のペルソナ(位格)である聖霊のことを述べて締めくくられています。イエス・キリストは、「父なる神の栄光のうちに聖霊とともに」称えられる方です。こうして、その賛美のことばは、きわめて簡潔ではありながらも、聖三位への礼拝とともにその頂点に達するのです。
 栄光の賛歌の後、主司式司祭は、「集会祈願」(Collecta)と呼ばれる祈りを共にささげるよう会衆を招きます。この祈りは、ミサに参列する会衆の意向を一つに集めて「開祭の儀」を結ぶものです。つまり集会祈願は、そのミサの意向が示されているのです。
 こうして主に向かうための全ての準備を整えて、私たちはみ言葉である方との出会い、言葉の典礼へと入っていきます。

次回は第7回「言葉の典礼」(その1)です。

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