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ミサを味わう(17)

田中 昇(東京教区司祭)

第17回 「感謝の典礼」
交わりの儀(2)平和のあいさつ


平和を願う祈り

「主イエス・キリスト、あなたは使徒に仰せになりました。『わたしは平和を残し、わたしの平和をあなたがたに与える。』主よ、わたしたちの罪ではなく、教会の信仰を顧み、おことばのとおり教会に平和と一致をお与えください。あなたはまことのいのち、全てを導かれる神、世々とこしえに。アーメン。」

  御父に平和の賜物を願った後、司祭は、最後の晩餐のときにイエスが弟子たちに語ったことば、すなわち「私は、平和をあなたがたに残し、私の平和を与える」(ヨハ14:27)を思い起こしながら語りかけていきます。この一節において、イエス自身、自らが与える平和とは「世が与えるような」平和ではないと説明しています。この件と似た表現がヨハネ福音書の15章11節に見られます。「私の喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされる」。そのようにイエスの愛に留まる者には、イエスの平和と喜びが約束されているのです(ヨハ15章)。事実、復活された主は、弟子たちに会った時、最初にこの平和と喜びを与えています(ヨハ20:19-21参照)。

 多くの人々はこの世の安寧(あんねい)と平和を求めますが、それは往々にして人間的成功や企図に基づく平和であり、世俗的な見方における一路順風の平和であり、諸問題や苦しみを回避して得るような平和です。
 しかし、こうした類の平和や喜びは脆(もろ)くも儚(はかな)いものです。それは、外的な状況次第で簡単に変化し得るかりそめの平和なのです。人の健康、仕事、財務状況、周囲からの評価などがそれです。こうした不安定な基盤の上に人生の土台を置いても、真の平和と喜びは全く得られません。かえって、さらなる不安を生み出すだけです。

 しかしながら、キリストはより深遠な、より長く継続する平和と喜びを与えて下さいます。この平和と喜びは、この世が与えるものとは異なります。イエスに私たちの人生の土台になっていただき、私たちのために立てて下さった主のみ旨に従って私たちが生きるとき、つまりイエスとともに信仰、希望、愛を私たちが生きるとき、主は私たちに深い内的で霊的な平和と喜びを与えて下さり、人生の多くの失望や試練や苦しみに立ち向かわせてくれます。
 しかし、これこそが真の心の平和、喜びであって、あらゆる結婚の内に、またあらゆる家庭、共同体、小教区そして国家の内にも真の一致を築いてくれます。そして、これが典礼のこの部分で、司祭が願い求めて祈っていることなのです。そして、逆説的に聴こえるかもしれませんが、主の平和(シャローム)とは時に困窮する信仰者の生活の只中でも実現可能なことなのです。

 この後、司祭は平和の挨拶として、会衆の方を向いて、パウロの多くの書簡の中に出て来ることばを人々に語ります。「主の平和がいつもあなたがたとともにありますように」(ロマ1:7; 1コリ1:3; ガラ1:3を参照)と。しかし、これは単に使徒的な挨拶というだけではありません。これはもともと復活されたイエスが、戸に鍵をかけて閉じこもっていた弟子たちの前に現れたときに語ったことば、「あなたがたに平和があるように」に依拠している力ある呼びかけでもあるのです。そのことばを聞いた弟子たちは喜んだと記されています(ヨハ20:19-22)。まさに晩餐の席でイエスが弟子たちに約束した平和と喜びが、復活したイエスと出会った弟子たちに与えられたのです。祭壇上に現存される復活のキリストは、司祭の口を通して、新たに私たちにご自分の平和を与えようと語っておられるのです。私たちは不安や悲しみで心を閉ざすのではなく、主の平和に喜びをもってあずかるべきなのです。

新しく挿入された一文
 
新しい日本語の式文では、この祈りの末尾にもともと翻訳されていなかった一文「あなたはまことのいのち、全てを導かれる神、世々とこしえに」が加えられています。

 先ほどの司祭の祈りのラテン語原文の末尾は、本来「あなた(平和をお与えになる主イエス・キリスト)は、代々に至るまで生き支配しておられます」という表現で結ばれていました。これは、今まですでに見てきた主を褒め称える聖書的な言葉と関連しています。これと同様の祈りの結びの表現は、ミサの集会祈願にも似た表現が採用されている場合があるので、このような結びの言葉は決して異質な者ではないことに気づくでしょう。

平和のあいさつ
 
次に平和のあいさつが続きます。司祭は、「互いに平和のあいさつを交わしましょう」と呼びかけますが、ラテン語の式文の直訳に近い表現としては、「あなたがたは相互に平和を捧げ合いなさい」となります。これは単に「平和、平和」と口にしながら、どこかよそよそしく挨拶を交わすというものではなく、上述してきた通り、お互いに主から頂いた真の平和、ミサのこの時点で感じている深い信仰の喜びを与え合う、言い換えれば主の恵に浴する状態、救われた者の境地を相互に分かち合うという非常に感動的な意味を持っています。

 この平和のあいさつは、古代キリスト信者の実践、特にペトロとパウロの「聖なる口づけをもって互いに挨拶を交わしなさい」(ロマ16:16; 1コリ16:20; 2コリ13:12; また1テサ5:26; 1ペト5:14も参照)という勧めを反映したものといえる所作です。この「聖なる口づけ」は、初期キリスト者たちが分かち合った愛の交わりを表現するものであり、相応しくも典礼の中で実践されることになったのです。すでに紀元155年には、殉教者ユスティノスがミサの中で口づけを交わすことについて語っています。

 200年頃、テルトゥリアヌスはこの儀式が祈りとして承認されていることに触れています。こうした初代教会の実践は、マタイ福音書5章24節の教えに沿うものとも解されます。実際、ミラノのアンブロジウス典礼においては、現在でもこの平和のしるしは共同祈願のとき、つまり供え物を祭壇に奉納する前に行われています。

 私たちは今日のミサにおいて、平和や一致、そして愛を表す何らかの「しるし」となる所作をあいさつとして交わします。そのしるしは、地域の習慣によって異なるでしょう。ある文化的状況では、このしるしは、ハグすること、握手することを意味する場合もあるでしょう。他には、お辞儀をしたり、あるいはまた別のしるしを用いることも当然あります。それらは共同体の生きる文化に即したものであってよいのです。その所作がどうであろうと、平和のあいさつは、主の祈りを、今から行われようとしている聖体拝領と結びつけるものと理解することができます。その一方で、この平和のあいさつは、すでに見たように、すべての神の子らの一致を表現する役目、主の祈りを美しく儀式的に表現する役目を果たしています。

 私たちは、個人的に別々に神に依り頼むのではなく、神の契約によって結ばれた家族の兄弟姉妹として、「天におられる私たちの父よ」と言いながら一緒になって神により頼むのです。他方、平和のあいさつは、聖体をいただくときに会衆がお互いに分かち合う深い一致、深淵な信仰の神秘にあずかる喜びを前表として象徴的に示しているのです。

次回は第18回 「感謝の典礼」交わりの儀(3) 平和の賛歌(アニュス・デイ)です。


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