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ミサを味わう(12)

田中 昇(東京教区司祭)

第12回 「感謝の典礼」(その2) 奉献文−叙唱


 現在のカトリック教会には主に、5世紀頃からローマ典礼の奉献文(Canon Romanus)として約1500年近く用いられてきた奉献文に依拠した第1奉献文をはじめ、第二バチカン公会議後に新たにカトリック教会が公認した第2、第3、第4奉献文、および2つのゆるしの奉献文、3つの種々の機会の奉献文があります。第2奉献文は、3世紀初頭のローマのヒッポリトスの『使徒伝承』に記されている奉献文に依拠したもの、第3奉献文はローマ・アレクサンドリアの伝統をアンチオキア式に改めたもの、そして第4奉献文はシリア・ビザンチン様式の奉献文、現在でも東方教会で用いられている聖ワシリー(バシレイオス)の奉献文をモデルに起草されたものと言われています。このように現在のカトリック教会の典礼は、初代教会の様々な伝統を尊重し、それらに依拠した豊かさを享受していると言えます。そのため司祭は、必要最小限で短時間に済ませられるという理由だけで、単一の奉献文だけを延々と用いるべきではなく、教会の典礼的伝統の多様性を適切に活かすように努める必要があるでしょう。

 奉献文の主な構成要素は次のとおりです。これから順に考察していきたいと思います。
①    叙唱
②感謝の賛歌 Sanctus 
③聖霊の働きを求める祈りEpiclesis 
④聖体制定の叙述 
⑤「信仰の神秘」 
⑥記念Anamnesis、奉献、取り次ぎ 
⑦栄唱

奉献文の叙唱
 
奉献文は3部構成の対句とともに始まりますが、それは少なくとも3世紀から教会で唱えられてきたものです。新しい典礼の式文は、原文に忠実に3部構成の対句としました。実はこの3部構成の対句は、歴史上、ヒッポリトスの奉献文(215年ごろ)の中で初めて確認されるものです。それから18世紀もの時を経た現在、初代教会のキリスト信者とひとつになって、私たちは継続的に同じことばを奉献文の初めに唱えているのです。

1 主はみなさんとともに     − またあなたとともに。
2 心をこめて          − 神を仰ぎ、
3 賛美と感謝をささげましょう。 − それはとうとい大切な務めです。

この式文をラテン語原文から直訳すると次のようになります。

 1 主はみなさんとともに    −  またあなたの霊とともに。
 2 心を上に             −  私たちは(それを)主に向けています。
 3 私たちの神である主に感謝をささげましょう。  
                                                        −  それはふさわしく正しいことです。

1 主はみなさんとともに
 
私たちは、以前から始めの対句を耳にしてきました。それは、ミサを始める開祭の儀や福音朗読の前で用いられていました。これまで既に、これと同じ挨拶が、聖書の中に見出される困難極まりない重大な使命に神によって招かれた人々に宛てて用いられているのを確認しました。彼らが自分たちの責務を遂行するには、いつもともにいて下さる主を必要としていました。この点で、私たちがミサの中でとりわけ神聖な部分、すなわち奉献文を始めるとき、この挨拶が復唱されることは実に相応しいことです。司祭と会衆はともに、ミサでささげられる神聖な いけにえ の神秘にあずかる支度として、まさにともにいて下さる主を必要とするのです。

2 心を上に
 
次に、司祭は「心を上に(挙げよ)」(ラテン語でSursum corda)と言います。この祈りは、エレミヤの哀歌に見られる類似する勧告「天におられる神に向かい、私たちの心も手も挙げよう」(哀3:41)を彷彿とさせます。しかし、私たちの心を「挙げる」とは一体どういう意味なのでしょうか。
 聖書において、人間の考えや感情や行動は人格から生まれ出て来るのですが、心はその人格の内奥の中心です。人が意図したことに向かっていくときは、いつもそこに人間の心が作用しています。それゆえ、ミサで司祭が「心を上に(挙げよ)」と言うとき、これから展開して行こうとしていることに、全神経を集中して注意を払うよう私たちに強く求めているのです。これは、あらゆる心配事を脇に置くように、また奉献文において展開していくことの崇高さに、私たちの思いや望みや感情、つまり私たちの心を集中させるようにとの注意喚起なのです。
 この要求は、パウロがコロサイの信者に宛てたことばを思い出させてくれます。「あなたがたはキリストとともに復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものを思いなさい。地上のものに心を寄せてはなりません。」(コロ3:1-2) ちょうどパウロがコロサイの信者に「キリストがおられる上にあるもの」を探し求めるよう招かれたのと同様に、私たちも全存在を天にあるものに向けていくように招かれています。なぜならその天にキリストがおられるからです。そして、そここそが奉献文において私たちが赴くところなのです。

 北アフリカの教父であった聖チプリアヌス(258年没)は、いかにこの祈りが、私たちの注意をこの世の雑念から引き離し、奉献文で行われている荘厳な儀式に心を集中させるように私たちを導いているか説明しています。

「愛する兄弟よ、立って祈る時、私たちは全身全霊で祈りに向き合わねばなりません。世俗にまみれた思いは過ぎ行くままに任せ、私たちの心を、ただ祈りのために傾けようではありませんか。なぜなら、司祭が奉献文の前の叙唱において、『心を上に(挙げよ)』と喚起し、これに人々は『私たちは(それを)主に向けています』と応えて祈りの準備を整えるのですが、そうすることで司祭もまた、主以外の何ものにも心を向けないことを心に刻み付けるからです。」[1]


[1] チプリアヌス『主の祈りについて De dominica oratione』c. 31参照。

 別の教父、エルサレムのキュリロス(チリロ)も同じ点を指摘し、信じる者たちにこの時の重大性に注意を払うよう促しました。

「心を上に(挙げよ)――この崇高な時に際して、私たちの心を神へと高く上げなければなりません。うかつにも地上のことに、地上の心配事に心を落としてしまわないように気を付けなければなりません。ミサに献身している司祭は、その全身全霊をもって、この時ばかりは世俗の懸念や雑事を脇に置いて、人々を愛してやまない天におられる神に、私たちの心を向けるよう私たちに勧告しているのです。・・・・・・心を上に挙げながらも世俗の関心事に気を取られてしまうような心など持たぬようにしようではありませんか。」[2]

[2] エルサレムのキュリロス『洗礼志願者のための秘儀教話』 (Catecheses Mystagogicae) 5, 4-5を参照。

感謝すること
 
感謝の祭儀ないし聖体を意味するギリシア語「エウカリスチア」は、もともと感謝するという意味の「エウカリステオ」という動詞と関連しています。それゆえ神に感謝することは、祈りの根本的な要素であると同時に、私たちがミサ聖祭を捧げることそのものにも通じます。

 典礼的対句の最後において、司祭は、「私たちの神である主に感謝をささげましょう」と言います。私たちはすでに栄光の賛歌(「感謝をささげます」)と聖書朗読の応答(「神に感謝」)で見てきたように、感謝は、神のいつくしみと私たちの人生における神の救いの業に対する共通した聖書的応答なのです。主に感謝するように私たちを促す司祭は、詩編に見出される同じ勧めのことばを繰り返しているのです。「主に感謝せよ。主はいつくしみ(恵み)深く・・・・・・」(詩136:1-3; また詩107:8, 15, 21, 31も参照)と。ユダヤ教の慣習では、感謝とは、創造主に対して私たちが実際にささげることのできる唯一のものなのですが、実のところ創造主にとっては私たちに感謝されることなど必要ないのです。

 パウロは、キリスト信者の生活は感謝の祈りによって特徴づけられるべきだと教えています。私たちは、「あふれるばかりに感謝」(コロ2:7)すべきであり、すべての行いにおいて(コロ3:17)、また「どんなことにも」(1 テサ5:18; フィリ4:6を参照)、特に賛美において(1コリ14:16-19; エフェ5:19-20;  コロ3:16を参照)感謝すべきなのです。

 感謝の祈りをささげる聖書的な慣例に従って、司祭は私たちを「私たちの神である主に感謝する」ように招きます。しかもミサのこの時点で、既に私たちには感謝すべきことがたくさんあるのです。古代イスラエル人たちが敵から救い出されたことで主に感謝したように、御子を遣わして罪や悪魔から救って下さるがゆえに、今、私たちも神に感謝すべきなのです。キリストの死と復活であるあがないの行為が、このミサにおいて私たちにも実現しようとしているのですから、私たちはそれに対してへりくだって感謝を表さなければならないのです。

 また、今まさに私たちの間で起ころうとしている神秘、奇跡にも感謝しなければなりません。祭壇にささげられたパンとぶどう酒が変化して、イエスの御体と御血になろうとしているからです。私たちの主であり王である方は、真に現存される聖体のうちに、すぐさま私たちとともにおられることになります。私たちの教会が神の存在の宿られる新しい至聖所のようになるにつれて、私たちの心は感謝で満たされていくでしょう。私たちがそこに近づいて行けるとは、なんと畏るべき特権でしょうか。私たちは、古代イスラエルの人々のように、神が住まわれる神殿に賛美と感謝の喜びの詩編とともに近づいて行けるのです。事実、私たちは、巡礼者たちがエルサレムに近づいたときに彼らが耳にした詩編作者のことばの響き「感謝のうちに御前に進み」(詩95:2)や「感謝して主の門に進み」(詩100:4)を、司祭が「私たちの神である主に(賛美と)感謝をささげましょう」と招くときに耳にすることになります。

 私たちには感謝すべきことがたくさんあります。それゆえ、私たちの目の前で今まさに起ころうとしている神秘に対して、唯一の相応しい応答は感謝することであるというのは間違いありません。主に感謝するようにとの司祭の招きに答えて、私たちは「それはふさわしく正しいことです」と応答するのです。

 ヨハネ・クリゾストモは、司祭がいかにこの祈りの中で会衆を代表しているかを特筆しながら、この点を指摘しています。「感謝をささげること(エウカリスチア)を共同で行うのは正しくふさわしいことです。感謝をささげるのは、司祭だけではなく、会衆全員が行うことなのです。司祭が祈りを唱え始めると、信者は続いてこう言って同意します。『それは正しくふさわしいことです』と。その後、司祭はいよいよ感謝のわざ、すなわちエウカリスチアを始めるのです。」[3]しかし司祭はこの祈りを自分のためにささげるのではありません。司祭は、自分と一緒になって神に感謝をささげたいという自分たちの望みを今まさに表現した会衆に代わってこの祈りをささげているのです。

[3] ヨハネ・クリゾストモ 『コリントの信者への第二の手紙注解18:3』(in Epistulam II ad Corinthios, 18:3; PG 61, 527)参照。これは「世界代表司教会議 第11回通常総会 提題解説」36項で引用されています。

叙唱
 
主に感謝するように私たちを招いた後、司祭は直ちに感謝の祈りにおいて神に語りかけていきます。その起句は必ず御父に宛てられていて、私たちが聖書に一貫して見てきたこと、すなわち主に感謝することは、神の民の本分であることを表現しています。例えば、ある叙唱は次のように始められます。

聖なる父、全能永遠の神、いつどこでも主キリストによって、賛美と感謝を捧げることは、まことにとうとい大切な務めです
(ラテン語の表現では、「それはまことにふさわしく正しいこと、また当然のことであり救いでもあります」です)。

 叙唱は、旧約聖書の詩編に見られる感謝の様式を踏襲しています。一般的に感謝は、神の創造のみ業の賜物(詩136:4-9)、民の生活の日々の糧(詩67:6-7)、驚くべきみ業(詩75:1)、そして救いのみ業(詩35:18)に対してささげられました。この類の詩編では、主が特別な方法で人間を救って下さったことに対して、それが癒しであるにしても(詩30, 116)、敵からの救いであるにしても(詩 18, 92, 118,138)、あるいは困難からの解放であるにしても(詩66:14)、神の民は感謝をもってそれに答えたのです。詩編作者は自分の試練といかに神がそれから自分を救ってくれたかを物語っていますが、それが賛美と感謝の根拠になっています。

 この形式が詩編136編に見受けられます。この詩編は、詩編作者が創造の驚くべきみ業のゆえに、つまり大地と水と星と太陽と月を造ったがゆえに(詩136:4-9)、神に感謝することから始まります。それから、この詩編はイスラエルの歴史における神の救いのみ業を物語ることへと移行します。つまり、イスラエルの民をエジプトから連れ出し、紅海を分け、ファラオを海の水の中に飲み込ませ、イスラエルの民を、荒れ野を通らせて導き、そして遂にイスラエルの敵を打ち負かしたことを語っているのです。次に、詩編作者は、かつて自分たちの先祖を救われたのと同じ神が、現在に至って、神の民を解放するためにいかに働きかけられているかということも高らかに語っています。自分たちの先祖をエジプトから解放したその神が、また「私たちが低くされていたとき、私たちを思い出し」、「敵から私たちを助け出し」(詩136:23-24)てくださったのです。それゆえ、詩編作者とともに集うその共同体には、感謝すべき大きな理由があるのです。ご自分の民に対する神の愛は、歴史の中で終始一貫して変わることはありませんでした。神は、出エジプトの時代から現在に至るまで、ご自分の民にずっと忠実だったのです。詩編作者は次のように結びます。「天の神に感謝せよ。慈しみはとこしえに(変わることはない)」(詩136:26)と。

 奉献文は、この聖書的な形式を踏襲しています。いにしえの詩編作者たちのように、私たちにも感謝すべきことがたくさんあるからです。詩編 136編のように、奉献文は救いの歴史の中で神がなされた驚くべきみ業を語ります。その語り口には多様な形式があり、それゆえ叙唱にはいくつかの選択肢があります。この祈願の幾つかの形式は、天地創造のみ業のゆえに神に感謝をささげています。他の形式では、祝祭日や典礼季節にもよりますが、キリストの救いのみ業という特定の側面が強調されます。例えば、降誕節には、司祭は神が人となられたことに感謝します。聖週間には、いかにイエスがサタンに打ち勝つ時が近づいているかに触れます。復活節には、キリストが私たちのために永遠の命を勝ち取られたことを神に感謝します。しかし、これらの祈りはすべて、神の救いの計画の真髄について、つまりキリストの命を与える死と復活のゆえに神に感謝することに焦点を当てています。

次回は第13回 「感謝の典礼」(その3) 奉献文−感謝の賛歌 Sanctus です。


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