ミサを味わう(10)
田中 昇(東京教区司祭)
第10回 「ことばの典礼」(その5) 共同祈願
ことばの典礼は、「信者の祈り」(oratio fidelium)、ないし「全ての人の祈り」(oratio universalis)して知られる共同祈願において最頂点に達します。これはミサの中でも、最も古い構成要素の一つでした。紀元155年にはすでに殉教者ユスティノスがそのことについて証言しています。ユスティノスは、キリスト教徒がミサで何をするのかを説明し、祈りや儀式の概要を記しながら、ローマ皇帝に宛てて手紙を書いているのですが、その中で彼は聖書朗読と説教の後にささげられる執り成しの祈りについて次のように記述しています。
「それから私たち一同は起立し、永遠の救いにあずかるために正しく生き、行動し、また掟に忠実であるように、自らのため・・・・・・また至るところの、他のすべての人のために祈ります。」[1]
[1] 殉教者ユスティノス『護教論』(Apologia) 1, 67、柴田有訳『ユスティノス』―『第1弁明』 (教文館、1992年) 86ページの67項、『カテキズム』1345項の引用を参照。
当然のことながら、これは今日のミサの「共同祈願」と類似しています。つまり「共同祈願」は、少なくとも2世紀の殉教者ユスティノスの時代にまで遡る教会の伝統に基づくキリスト信者共同体の執り成しの祈りなのです。
しかし執り成しの祈りの実践は歴史的にはさらに古い伝統にまで遡ります。たとえば、ペトロがヘロデによって投獄されたとき、エルサレムの教会は「彼のために熱心な祈り」をささげ、その夜、み使いがやって来て鎖をはずし、彼を解放しました(使12:1-7)。パウロは、弟子であるテモテに勧めを与えて、すべての人のために執り成しをするよう次のように言いました。「願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。王たちやすべての位の高い人のためにもささげなさい。私たちが、常に敬虔と気品を保ち、穏やかで静かな生活を送るためです。これは、私たちの救い主である神の前に良いことであり、喜ばれることです。神は、すべての人が救われて、真理を認識するようになることを望んでおられます」(1テモ2:1-4)と。パウロ自身、自分が関係した諸教会共同体の必要のために絶えず祈り(1テサ1:2-3)、また彼らに自分の任務のために祈ってもらいました(2コリ1:11)。このように新約聖書において、執り成しの祈りがこのように強く求められていることを考えれば、共同祈願が正式にキリスト教の早初期からミサの中にその場を得ていたのも当然なことです。しかしこの共同祈願は、中世期を通じて、長い間、ローマ典礼のミサ聖祭においては忘れ去られていました。それゆえこれを再興したことは、第二バチカン公会議の改革の重要な出来事の一つだと言えます。
祭司的な執り成し
こうしたミサにおける共同祈願は、信者にとって意義深い時を表しています。『ローマ・ミサ典礼書の総則』は、この共同祈願において信者全員が「祭司職の務めを実行している」ことを指摘しています。[2] 神の民、すなわち叙階された聖職者のみならず、修道者、そして信徒たちすべてに祭司的役割が与えられているということが聖書の中で証言されています。キリストが私たちを「祭司の王国」として下さった(黙1:5-6を参照)ゆえに、私たちは「選ばれた民、王の祭司」(1ペト2:9)なのです。こうした祭司職がミサのときに実践される一つの方法は共同祈願の内にあり、これにより私たちは全人類を代表してキリストの神への祭司的祈り(ヨハ17章参照)に参与しているのです。イエスは、「ご自分を通して神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。・・・・・・彼らのために執り成しておられるからです」(ヘブ7:25)。私たちは、典礼のこの機会に、独特な方法でキリストの執り成しに参与するのです。
[2] 『ローマ・ミサ典礼書の総則』 69項。
『カトリック教会のカテキズム』は、執り成しの祈りが「神のあわれみに結ばれた心の持ち主の特徴的な行為」[3] であると述べています。私たちが本当に神の思いと合致しているなら、他者のために自然と祈りたくなるはずです。逆に言えば、祈りの心を欠いたキリスト者など本来はあり得ないのです。ことばの典礼の頂点において、こうした教会の祭司職の行使として共同祈願をささげるのは絶好の時なのです。この段階に至るまで、信者は、聖書において示され、説教で詳しく説かれ、信条において要約された主のことばを耳にしてきました。そして、神のみことばによって涵養されてきた信者は、イエスの心と思いと一つになって、教会と世界の必要のために祈りながら神の呼びかけに応えるのです。祈りは普遍的な視野で、たとえば権力者のため、様々な必要や苦しみを抱えている人々のため、そして万人の救いのために[4] 行われなければなりませんから、共同祈願を通して、私たちは自分自身のことだけではなく、「他人のことにも」(フィリ2:4)注意を払うように訓練されるのです。
[3] 『カテキズム』2635項。
[4] 『ローマ・ミサ典礼書の総則』 は、共同祈願の意向は、まず教会の必要のため、次に国政にたずさわる人々と全世界の救いのため、困難に悩む人々のため、現地の共同体のため、という順番を示しています(70項)。
次回は第11回 「感謝の典礼」(その1) 奉納です。
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