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ミサを味わう(5)その3

田中 昇(東京教区司祭)

第5回 「回心の祈り」(その3)


私の大いなる過ち
 
回心の祈りで、単に「私は、罪を犯しました」ではなく「私は、たびたび罪を犯しました」と言います。この「たびたび」と訳されるラテン語nimisは、「大いに」、「大きな」という意味もあります。これはダビデが神に向かって言った悔い改めの言葉なのです。

「私は、このようなことをして大きな(大いに)罪を犯しました。」(代上21:8)

 次にラテン語規範版のテキストでは悔い改めを表すために胸を打ちながら次のように三度繰り返します。ただし、この三度繰り返される言葉と胸を打つ所作は、新しい日本語のテキストでは省かれています。ただこの聖書的なラテン典礼の所作の意味を知ることは重要なので少し説明します。

mea culpa, mea culpa, mea maxima culpa.
私の過ちによって、私の過ちによって、私の大いなる過ちによって。

 このように繰り返すことで、自分の罪に対する悲しみがもっとよく表されます。聖書の伝統において、三度繰り返す動作は、何か特別に強調するためのもの、いうなれば最上級の意味があります。

 私たちは何か小さな過ちをしたとき、相手に対して「ごめんなさい」と言うだけでしょう。しかし、私たちは、もっと大きな過ちを犯してしまい、自分の行いを深く嘆いている場合は、ときに何度も謝り、しかも様々な表現で謝罪します。「誠に申し訳ありません・・・そのようなことをして本当に後悔しています・・・どうか私を許してください」というふうに。

 ミサでこのように言うことにより、私たちは、告白すべき神に対する罪が決して小さなものではないことを認識することができるのです。私たちは、私たちがしたすべての悪いこと、あるいはすべきであったのにしなかった正しいことに対して責任を取らなければならないのです。したがって私たちは、ミサで神に単純に謝罪するのではないことに気が付きます。回心の祈りにおいて、心からの痛悔を表し、「私の過ちによって、私の過ちによって、私の大いなる過ちによって」罪を犯したことを謙虚に明確に認めるのです。

 さらに自分の罪を繰り返し認める言葉と同時に行われる「胸を打つ」という典礼的動作は、旧約・新約に共通する神の民が悔い改める時に示す象徴的な動作を私たちも実践していることになるのです。このように本来の典礼式文は、この悔い改めの祈りが私たちにとっても真の悔い改めの告白となるように招いていると言えます。ただ上の空で、この式文を習慣的に口先だけで「唱える」のではなく、心から、身体的な動作をも伴って神と人々に罪からの解放を嘆願するように招いているのです。

兄弟姉妹のみなさん
 
私たちは父なる神に対して罪を犯すばかりでなく、それは隣人に対しての、また真の自分自身に対しての罪を犯しています。全き善なるものとの関係性の断絶こそが罪と呼ばれるものです。私たちの罪は、決して個人的な次元でとどまるものではありません。私たちはミサ聖祭の冒頭において、主との出会い、交わりに向けて準備しているのですが、それは自分がそれまで加担したさまざまな悪の連鎖を断ち切る決意をするものなのです。第二バチカン公会議後、教会はラテン語規範版の回心の祈りの式文を改訂した際、全能の神に対して自身の罪深さを告白するだけでなく、「兄弟姉妹のみなさん」に対しても告白する必要性をあらためて導入しました。これは古代教会の実践の意味合いを取り戻したとも言えるでしょう。そして互いに罪を告白し合い、聖母マリアと全ての天使、聖人と共に、兄弟姉妹が、罪の赦しをいただけるように、ふさわしい姿で主と出会うことができるよう、神に祈るように互いに嘆願するのです。

 こうして罪からの解放が個人的なレベルのみでなく、共同体的なレベルにおいても実現するよう期待されているのです。一般的に、人は犯罪者でもないのに自分がこれほど罪深いのですと、あえて他人に告白などしません。むしろ、どこかしら自分は他者よりも真っ当に生きているというくらい、どこか自己正当化する高慢さ、差別的意識さえを持っています。心から正直に、謙って自分の弱さを告白することは、案外キリスト信者でさえも遠慮がちなのが現実のように思います。しかし、同じ信仰に生きる者、キリストにおいて父なる神の子ら、その兄弟姉妹となった者どうしが、謙遜にお互いに弱さを認め合い、ゆるし合い、祈ることのできる共同体の実現はとても重要です。それこそが真の共同体だからです。他者に対して迷惑を省みない教会、どこか他者に対してよそよそしい教会、個人主義に陥りがちで、他人の事に無関心な教会、あるいは自分のことを棚に上げて他者を厳しく断罪するような邪な眼差しや陰口が囁かれる教会など、真にキリストの教会とは程遠いものなのです。私たちは真の和解のうちにあって、キリストと共に感謝の祭儀を祝うことができるのです。互いに弱さや苦労を労わり合える共同体は、本当に人々の癒しの泉となれるでしょう。

正しい罪意識は私たちの召命の原点(神への遠さと近さ)
 私たちが神に近づくためには、真の悔い改めのためには、まず自分自身の罪深さ、つまり聖性からの遠さを認識することから始めなければなりません。しかし神からの遠さを認識することと、神への近さを生きることとは殆ど同時的です。ダビデやモーセ、預言者イザヤをはじめ、かつて旧約の義人たちがそうであったように、また聖ペトロ、聖パウロをはじめとする多くの教会の歴史を代表する聖人たちがそうであったように、全ての偉大な聖人と呼ばれる人々は、最初から偉大な預言者、優れた人物、立派な指導者、完璧な教師であったわけではありません。彼らは主の御前にあって、誰よりも自身の弱さ、愚かさ、罪深さを痛感できた人物でした。しかし自身の罪深さに気づいた彼らは、同時に主の偉大な御業のための働き手、道具として召されていきました(象徴的な場面として、たとえばイザ6:5-13、ルカ5:8−22を参照)。私たちも同じです。ですから、勝利主義の洗礼もなければ、修道者あるいは司祭への召命というのも存在しません。同じように教会に不慣れな信者を見下して自分はいかにも優れた信者なのだと自惚れるような人が、まっとうなキリスト信者であるわけがないのです。私たちは皆、主の御前に小さく等しい存在なのです。大切なのは、主がその小さな私を通して働かれるように、私たちを主にお委ねすることです。こんな私でも、どうぞあなたのいつくしみにおいて、人々の喜びのためにお使いください、と。この意味で私たちは健全な罪意識、謙遜を身につけるべきなのです。

「自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国で最も偉いのだ。」(マタ18:4)

次回は第6回 「いつくしみの讃歌」と「栄光の讃歌」(その1)です。


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