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ミサを味わう(14)

田中 昇(東京教区司祭)

第14回 「感謝の典礼」(その4) 
奉献文−聖変化:エピクレーシスと秘跡制定句


聖霊の働きを求める祈り−エピクレーシス
 
古代ユダヤ人の食卓の祈りにおける杯の祝福は、神がメシアをイスラエルに遣わして、ダビデの王国を再建して下さるようにとひたすら願う祈りを含んでいることを、私たちは既に見ました。至極当然のことながら、初期キリスト者たちは、これと同じ懇願を奉献文に含めました。エピクレーシス(Epiclesis)[1] と呼ばれる聖霊の働きを求める祈りにおいて、司祭は、御父が聖霊を遣わして、パンとぶどう酒のささげものが私たちの主の御体と御血になるように祈ります。古代ユダヤ人たちがメシアを遣わして下さるよう神に切に願ったように、今ミサの中で、司祭は、パンとぶどう酒の形色のもとにメシアであり王である方が再び現存されますようにと次のように祈ります。

「いま、聖霊を注ぎ、この供えものを聖なるものとしてください。私たちのために、主イエス・・キリストの御からだと御血になりますように。」
(第二奉献文)

または、

「聖なる父よ、あなたにささげるこの供えものを、いま、聖霊によって聖なるものとしてください。御子わたしたちの主イエス・キリストの御からだと御血になりますように。」(第三奉献文)


[1] Epiclesisはギリシア語で、元来「あだ名、あるいは一般的に『名』」を意味する語です。それはある人を「その名」によって呼び、その人に呼びかけるときに用いられるその人の「名」ということです。この意から派生して、「名」に依り頼んで、その名をもつ方に祈り願うという意味が生まれました。それゆえこの言葉は、「あるものの上に(神の助けなどを)呼び求めること」を意味するようになりました。

奉献文には、これとは別に、聖体制定の叙述の後に続くもう一つのエピクレーシスがあります。それは、古代ユダヤ教の種々の祈りの中で唱えられたもう一つの懇願、つまりダビデの家の再建を切に願うことと関係しています。ちょうどメシアが、再建されたダビデの王国で神の民を一つにしてくれるようにと多くのユダヤ人たちが期待したように、私たちは、聖体祭儀において私たちのところにやって来られるメシアが自分たちをその教会の中でもっと強固に一つにしてくれるにちがいないと確信して願うのです。それゆえ司祭は、聖霊に依り頼み、より大きな交わりにあずかる人々をすべて聖体が引き寄せてくれるようにと次のように祈ります。[2]

「御子キリストの御からだと御血によってわたしたちが養われ、聖霊に満たされて、キリストのうちに、一つのからだ、一つのこころとなりますように。」(第三奉献文)

同様に、他の奉献文においても、司祭は、聖体祭儀の中でキリストの唯一の体にあずかる私たちが、聖霊によって「一つに結ばれますように」(第二奉献文)、あるいは「一つのからだに集めてください」(第四奉献文)と切に願います。


[2] 現在でも正教会では、一つの教会堂で主日に聖体礼儀(ミサ)がささげられるのは一回だけとされています。信者全員は完全に一つの祭儀に共に集うものとされているのです。

秘跡制定句

 「皆、これを取って食べなさい。これはあなたがたのために渡される私の体である。」
 
 「皆、これを受けて飲みなさい。これはわたしの血の杯、あなたがたと多くの人のために流されて罪のゆるしとなる新しい永遠の契約の血である。これを私の記念としておこないなさい。」

 カトリック信者の中には、これらのことばはあまりに聞き慣れているという人もいるかもしれません。私たちの中には、ミサのたびに繰り返されているこれらのこのことばを何百回となく聞いたと言う人も数多くいるでしょう。中には日課のように受け止めている人さえいるかもしれません。しかし、私たちがこれらのことばを以前に一度も聞いたことがなかったとしたらどうでしょうか。私たちが、最後の晩餐のときにいたペトロやヤコブあるいは他の使徒たちの一人だとしたらどうでしょうか。私たちにとって、これらのことばはどんな意味を持つのでしょうか。

 この聖なることばの意味を十全に理解するために、ユダヤ教の過越祭を背景にそれらを聞くことが重要です。聖体制定の経緯を語る福音書は、最後の晩餐が過越の食事(マタ26:19; マコ14:16; ルカ22:13)という脈絡の中でおこなわれたことを私たちに物語っています。最初の過越のとき、神は、傷のない小羊をいけにえとしてささげ、それを食べ、その小羊の血を戸口の柱にしるしとして塗るよう指示しました。この儀式にあずかった家族は命を救われましたが、しかしそのとき、エジプト人の初子は十番目の災いによって死んでしまいました。それから毎年、後のイスラエルの民は、その最初の過越の話を繰り返し語り、再びいけにえの小羊を食べて繰り返し過越の食事を行って来たのです。

 そしてさらに最も意義深いことは、イスラエルの民が毎年祝う過越祭(出12:14参照)を典礼的な「記念」(ギリシア語で「アナムネーシス」anamnesis)として祝ってきたということです。このことは、古代のユダヤ人たちにとって、単に過去の出来事を思い起こすこと以上の意味を含んでいます。過越祭のような記念日は、単なる自分たちの歴史的な出来事を思い起こす現代のカレンダーの祭日とは全く異なったものでした。聖書で言う「記念」において、過去とは、ただ単に思い起こされるだけのものではなく、追体験されるものでもありました。過去の出来事は、祭礼を祝っているイスラエルの人たちに神秘的な仕方で現在化されました。このようなわけで、イエスの時代のユダヤ人たちは、過越祭を祝うとき、最初の過越が「記念」として自分たちに現在化されていると信じていました。実際、後のユダヤ教のラビたちの過越についての記述によれば、ユダヤ人がその祭を祝うとき、まるでエジプトから脱出した世代の偉大な祖先たちとともに、エジプトから歩いて脱出しているかのようであったと語っています。[3] 『カトリック教会のカテキズム』にも、これと同じことが指摘されています。

「記念とは、聖書的には、過去の出来事を単に想起することではなく神が人間のために行われた偉大なわざを宣言することを意味します。これらの出来事を祝う典礼祭儀の中で、出来事は何らかの形で現存し、現在化されます。イスラエル人たちは、エジプトからの解放を記念する過越祭を行うたびに、それによって自分たちの生活が活性化できるように、解放の出来事が信じる者たちの記憶の中によみがえってくる、と理解しています。[4]」


[3] Pesahim, 10. 5. 石川耕一郎訳『ミシュナⅡ-3』―『ペサヒーム』(エルサレム宗教文化研究所, 1987年)を参照。

[4] 『カテキズム』1363項。

 このように最初の過越の出来事が継承されていたがゆえに、各々の新しい世代は、支配者への隷属から解放されたことの起源となるこの出来事に霊的に参与できたのかもしれません。こうして毎年行われる過越祭は、世代から世代へ一貫して継承され、連帯性を陶冶(とうや)していきました。全てのイスラエル人は過越祭に参与し、皆がエジプトでの奴隷状態から救われたのです。そして、皆が契約による唯一の神の家族として結ばれてきたのです。

ミサはいけにえである
 
もし仮に、あなたが最後の晩餐の席にいた使徒たちの一人であるとしたら、イエスのことばのうちで、あなたの心を打つはずのものと言えば、いけにえに関する言い回しを使って、イエスが自らのことを表現したことばではないでしょうか。

 第一に、過越の出来事それ自体がいけにえに関わることであったのです(出12:27)。イエスが過越祭という脈絡の中で体と血について語っているとすれば、過越の小羊、つまり儀式においていけにえとなったその体と、それから取り分けられた血のことが思い出されるからです。

 第二に、イエスがご自分の体について「あなたたちのために渡される(ことになる)」と言われるとき、ルカ福音書の中で「渡される」を表現している用語(ギリシア語でdidomai)は意味深長です。というのも、新約聖書の他の箇所では、そのことばがいけにえとの関連で用いられているからです(例えば、ルカ2:24; マコ10:45; ヨハ6:51; ガラ1:4を参照)。

 第三に、イエスが「・・・・・・のために流されて、罪の赦しとなる」自らの血のことを話すとき、それは罪の赦しをもたらす目的で祭壇の上に注がれた血のこと(レビ4:7, 18, 25, 10, 34)、すなわち神殿でささげられたあがないのいけにえをほのめかしています。

 そして第四に、たぶん最も意義深いこととして、イエスは「新しい永遠の契約の血」について語っています。このことばは、神とご自分のお選びになった民との契約締結を固めるシナイ山でのいけにえの儀式のときに、モーセが言ったことばを反映しています (出24:1-17)。いけにえの祭儀の途中で、モーセは動物の血を取って、次のように告げました。「見よ、これは契約の血である」(出24:8)と。

 預言者エレミヤは、神が「イスラエルの家と結ぶ新しい契約」について語り(エレ31:31-35)、それが人々の心の内に刻み付けられるものであり、それを通して人々は真の神の民となる約束について語りました。また預言者イザヤは、神がみことばに聞き従う人々との間に「ダビデに約束した真実といつくしみによる永遠の契約」(イザ55:3)を結ぶことを語っています。

 そしてまさにイエスは、最後の晩餐のときに、自らの血のことを「新しい永遠の契約の血である」と言っているのです。そこに居合わせた使徒たちは、このことばを聞いて、モーセがシナイ山でのいけにえの血について語ったことをすぐさま思い出したことでしょう。あるいは、預言者たちが語った「新しい契約」、真のダビデの結ぶ、「いつくしみと愛に基づく永遠の契約」についても想起できたでしょうか。

 いずれにせよイエスはここで、過越の慣例儀式、渡される体、流される血、そして契約の血というすべてのいけにえにまつわる主題と合わせて、何らかのいけにえのことを語ろうとしているように思われます。しかし、イエスは(過越の食事の脈絡から思い浮かぶ)いけにえとしてささげられる過越の小羊について語る代わりに、いけにえとしてささげられ、また注がれるのが、まさにご自分の体と血であるということを語っているのです。今や彼の血が、契約のいけにえの血なのです。驚くべきことに、イエスはご自分のことを、普通に過越祭でささげられるいけにえの小羊であると見ています。こうして最後の晩餐のときのイエスの行為から、不思議にも十字架上で彼がいけにえとなることが予見されているのです。最後の晩餐という過越の食事で、イエスは罪の赦しのために進んでご自身の体と血をささげているのです。もはや彼が他にすべきことは、ただ聖金曜日に実際にエルサレムの丘で自ら血を流してそのいけにえをささげることだけでした。

「イエスは、弟子たちが食べ、飲むように与えるのは、自分のからだと血であると仰せになっただけではありません。イエスはそれらがいけにえとしての意味を持つことを示され、ご自分のいけにえが秘跡のかたちで現存するようにされたのです。それから、イエスはこのいけにえをすべての人の救いのために十字架上でささげられました」

(教皇ヨハネ・パウロ2世、『教会にいのちを与える聖体』12項)。

 確かにヨハネ福音書は、明らかにイエスを「世の罪を取り除く神の小羊」として一貫して描いているのですが、イエス自身のことばでは、イエス自身が「世に命を与える」天から降ってきた命のパンであり永遠に渇くことのない命の泉であると語っています(ヨハ6:32-36)。そして信仰の内にイエスの肉を食べ、その血を飲む者は永遠の命を得ると教えられているのです(ヨハ6:53-57)。つまりイエスのいけにえにあずかることこそ、罪のゆるしを得ることであり、またイエスの命にあずかること、永遠の命に生きることなのです。私たちはミサにおいてこの神の偉大な神秘に感動を覚え、その愛の御業に心からの感謝を捧げるのです。

 最後の晩餐と十字架との関係を理解すると、いかに今日私たちがささげる聖体祭儀が、ゴルゴタ(カルワリオ)の丘でささげられたキリストのいけにえを記念しているかという重要なことが明らかになります。イエスは、「私の記念としてこれを行いなさい」と言って、聖体の制定を締めくくっているからです。イエスが使徒たちに行うように命じられる「これ」とは何のことでしょうか。それは、彼の体と血という新しい過越のいけにえを感謝して祝うことです。では、どのように彼らはそれを行わなければならないのでしょうか。それは、聖書が言うところの記念としてです。ミサで使われる「記念」ということばは、すでに見たように、聖書的表現を(典礼的な)「記念」(anamnesis)として訳すところの、ただ単に過去を思い起こす以上のことを意味しています。典礼的な記念は、過去と現在とを同時にもたらし、昔の出来事を現世代のために神秘的な仕方で現在化させます。ですから、イエスが使徒たちに「私の記念としてこれを行いなさい」と命じるとき、人々に単純な食事を、さして意味も理解せずただ儀式的におこなうように言っているのではないことは明らかです。イエスは典礼的な記念として、つまり信仰者一人一人に生き生きとした形で自らに与えられた賜物として、自分に神から与えられた現実として最後の晩餐を祝うように教えているのです。なぜなら最後の晩餐が意味することはすべて、中でも特に、キリストの御体と御血といういけにえのささげものが、あますことなく、聖体祭儀の中で信者たちに対して現存することになるからです。

 最後の晩餐においてイエスは、弟子たちに、ご自身と御父との愛の交わりのうちに留まるように教え(ヨハ15:9-10参照)、「私があなたがたを愛したように互いに愛し合いなさい」(ヨハ15:12)という掟を与えました。それゆえ私たちは、イエスの契約にあずかる者として聖体祭儀を通して彼が私たちのために命をささげたその愛を現在化し、神と隣人への愛に生きるという掟を世の終わりまで主との約束を履行していくよう招かれているのです。

 こうして、最後の晩餐という典礼的な記念としての聖体祭儀は、今日の私たちにも秘跡的に現在化して、エルサレムの二階の広間そしてゴルゴタ(カルワリオ)の丘の出来事になります。そして、ちょうどいにしえのユダヤ人たちが、毎年、過越を記念してエジプト脱出にあずかったように、私たちキリスト者も、聖体祭儀という新しい過越を祝うたびに、イエスの十字架上の死による勝利という新しい出エジプト(exodus)、つまり永久の死から永遠の命への過越に参与するのです。

 この意味において、ミサはいけにえと理解されるべきなのです。『カトリック教会のカテキズム』が説明しているように、「新約聖書では、記念には新たな意味づけがなされています。教会が聖体祭儀(エウカリスチア)を行うとき、キリストの過越を記念し、これが現存するものとなります。キリストが十字架上でただ一度ささげられたいけにえは、つねに成し遂げられた状態にある」のです。[5] そして、このいけにえは救いの目的のために現在化します。それはすなわち、その救いの力が私たちの生活に働きかけ、私たちが犯す日々の罪に打ち勝つため、また私たちが、自らをすべてささげるイエスの愛の行いにおいて彼とより深く一致することができるためです。[6]


[5] 『カテキズム』1364項。

[6] 『カテキズム』1366項を参照。

 実にミサにあずかるたびに、私たちは、御子の親密さ、御父に自らをささげる愛のささげもの(十字架上でイエスが亡くなるときに最も明らかに示されたささげもの)に秘跡的に参与する特別の機会をいただくのです。『カテキズム』が説明しているように、ミサにおいて、私たちは、自分たちのあらゆる喜びと苦しみを、イエスが自らを御父にささげることと結び合わせることができます。またそうすることによって、私たちはさらに自分たちの生活を御父へのささげものとしてささげるのです。「聖体祭儀では、キリストのいけにえはまた、そのからだに属する人々がささげるいけにえとなります。信者たちの生活、賛美、苦しみ、祈り、労働などは、キリストのそれとキリストのまったき奉献とに合わせられ、新たな価値を得るのです。祭壇上に現存するキリストのいけにえによって、すべての時代のキリスト者がキリストの奉献に一致することが可能となります。」[7]


[7] 『カテキズム』1368項。

*   ちなみに東方教会、ことに正教会においては、秘跡制定句ではなく、エピクレーシスこそ聖別の効果をもたらす要因であると考えられてきました。聖ワシリー(バシレイオス)の奉神礼では、主の晩餐のことばが先に唱えられ、その後、パンと杯のぶどう酒が聖霊の働きによって聖別されるように祈り、イエス・キリストを示す聖号(ICXC)を用いながら十字のしるしをすることによって、それらがキリストの御体と御血になると考えられています。とはいえ東方教会の神学においては、そもそも西方教会のような全実体変化という概念がなく、またいつ、どのようにパンとぶどう酒が御体と御血に変化するのかという仔細な議論も重要ではなく、むしろ被造物の神との交わりを回復・実現させる聖体礼儀そのものによって、教会全体が聖なる者の集いへと変えられていくことの方が根本的に重要だと考えられてきました。聖体の保存および礼拝の習慣がない正教会においては[8]、聖体は仰ぎ見て拝む対象ではなく、「取って食べなさい」とキリストが言われた通りあくまでも皆がキリストの命にあずかるためにいただくものなのです。確かに、歴史的にエピクレーシスのない奉献文、秘跡制定句のない奉献文[9]というものの存在も認められてきました。


[8] 現在のギリシア、ロシアなどの正教会には、ローマ・カトリック教会のように聖体を常時聖櫃に納めておくという習慣はありません。

[9] 古代のアッダイとマリの奉献文

次回は第15回 「感謝の典礼」(その5) 奉献文−信仰の神秘、記念と嘆願 です。


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