ミサを味わう(4)
田中 昇(東京教区司祭)
第4回 「典礼における挨拶」
「主はみなさんとともに」
「主はみなさんともに」という言葉は「おはようございます」、「こんばんは」といった単なる挨拶と同列のものではありません。
「主はみなさんとともに」すなわち「主があなた方とともに」という挨拶は、聖書に出てくる義人たちに向けて語られた言葉を思い起させます。彼らは神から、気が遠くなるような任務を言い渡されたのです。それは、彼ら一人ひとりを自身の「安全地帯」から出て行かせ、かつてないほど神に信頼させることを余儀なくさせた任務です。主がイサクにかけた言葉「わたしがあなたとともにいる」(創26:3, 24)を思い出してください。そしてヤコブ(創28:13-15)、モーセ(出3:12)、そしてヨシュア(ヨシュ1:5, 9)、ダビデ王(サム下7:3)、預言者イザヤ(イザ43:5)、エレミヤ(エレ1:6-8)、そして祝福された処女マリア(ルカ1:28)、イエスの弟子たち(マタ28:20、マコ6:50)・・・。これらは一例に過ぎませんが、これらすべての人々は、この呼びかけを人生の極めて重要な瞬間に聞いています。神がこのように人に語りかけられるいくつかの場面では、主ご自身か主の御使いが、「主があなたとともにいる」と確信を込めてその人物に語っています。
ヨシュアを例にみてみましょう。モーセが死んだ後、神はヨシュアに、イスラエルの人々を約束の地に導き入れるという、思わず怯んでしまうような任務を言い渡されました。さらに神は、雄々しくあるように、勝利を確信するように、なぜなら「わたしがあなたとともにいる」からであるとヨシュアに語りました。
神は、ギデオンにも同じように呼びかけました。士師記で、神がギデオンに御使いを送り、イスラエルの地を乗っ取っていたミディアン人から人々を救い出すようにとギデオンに呼びかけています。主の使いが彼に現れて言いました。「主があなたと共におられる」(士6:12)と。ギデオンは軍隊経験がなく、弱い部族に属しており、家で一番年若い者であったにもかかわらず、神はギデオンに、ギデオン自身の力や技ではなく、神が彼とともにいることにより、イスラエルを率いてミディアン人に打ち勝たせることを約束されました。「わたしはあなたとともにいる。だからあなたは、ひとりの人間を打ち殺すかのようにミディアン人を打ち殺すだろう」(士6:16)。
おそらく、最も端的な例は燃える柴でのモーセへの呼びかけです。この有名な場面で、主はモーセに非常に困難な任務―人々がモーセを殺そうとした国、エジプトへ行き、ヘブライ人を奴隷にしていた邪悪なファラオに立ち向かい、彼に人々を解放するよう説得すること―を命ぜられます(出2:15参照)。
その重責に圧倒されたモーセは、自分はその任務に相応しくないと感じました。「私はいったい何者なのでしょう。ファラオのもとへ行ってイスラエル人をエジプトから連れ出さなければならないとは。」(出3:11)その後、モーセは、神から与えられた責務から逃れるためにあらゆる言い訳をします。「人々は、この神とは誰ですかと聞くでしょう」(出3:13)、「彼らは私を信じず、主が本当に現れたのか疑うでしょう」(出4:1)、「私は指導者になれるほど雄弁ではありません」(出4:10)と。
そこで、神はモーセに、彼がもっとも必要とするただ一つのことを与えるのです。すなわち、この困難な任務において、神ご自身がモーセとともにいるという約束です。「わたしは、あなたとともにいる」と神は言います(出3:12, 4:12)。モーセは、自身の才能や技量ではなく、神の助けゆえに彼の任務を果たします。神の助けにより、モーセは、自分の力でなすよりももっと大きなことをなし遂げることができるのです。聖パウロが言うように、神の力はモーセの弱さのうちに完全に現れるのです(2コリ12:9-10参照)。
みなさんは、今までの人生において求められたことに対してもう限界だと感じたり、あるいは不可能だと打ちのめされたりしたことはありませんか?今まで、モーセのように―神がみなさんに託された任務について、それが結婚生活、家庭、仕事、あるいはカトリック信仰を生きることについてなのかどうかにかかわらず、その任務が自分には力量不足であると―感じたことはありませんか?もしそうなら、典礼の最初で言われる「主がみなさんとともに」という司祭の言葉は、みなさんを鼓舞し、勇気づけるものとなるでしょう。
そして私たちは、この言葉の語りかけに際して、ヨシュア、モーセ、ギデオン、そして主から特別な使命を受けたその他の多くの人たちと同じ立場に立っているのだということを悟るべきなのです。私たちは、異教徒の迫害者から神の民を守ること、あるいはファラオのような邪悪な独裁者に立ち向かうことを求められてはいないかもしれません。
しかし、私たちは皆、それぞれが自分たちの家庭、結婚生活において、職場において、また友人関係において、教区や修道会において、そして地域社会において、他の誰にも果たせない役割を託されているのです。同時に、もし私たちが、子育て、勉強、仕事、信仰を他の人に伝えること、あるいは愛徳に生きることに対して、不安を感じたり自分は相応しくない、不十分だなどと感じたりしているとしたら、ミサにおいて、この典礼の挨拶において、主が私たちとともにいて助けてくださることを思い出すことができるのです。
もし私たちが、困難な結婚生活、難しい仕事の局面、重い病気、または愛する人を失った悲しみに直面しているならば、これらの試練の間中、神が私たちとともにいてくださいます。もし私たちが悲しみ、落胆、あるいは霊的な生活の暗闇の中にいるのならば、ミサは、私たちがたとえそのご臨在を感じることができなかったとしても、主が確かに私たちとともにいてくださることを思い出させてくれるのです。
私たち自身は主と出会い、主と語らい、主の聖なる体と血にあずかるという光栄を受けるに値しない者であるにもかかわらず、ミサの始めに、司祭が言うこの宣言により、主が私たちとともにいるのだということを私たちは思い出すべきなのです。モーセ、ヨシュア、ギデオンその他の多くの人たちとまったく同じように、私たちは自信をもって主の助けを信頼することができるのです。私たちは、神の強さが私たちに欠けるすべてのものを補うということを信頼することができるのです。
使徒たちの挨拶
「主はみなさんとともに」以外で、典礼における始まりの挨拶に使う言葉には、聖パウロが彼の手紙の中で用いた言葉があります。例えば、司祭の言葉は次のような場合もあります。「私たちの父なる神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなた方の上にありますように」―これは、パウロの手紙の最初の挨拶に基づく言葉です(ロマ1:7, 1コリ1:3, ガラ1:3, エフェ1:2, フィリ1:2を参照)。
この言葉は、特に、私たちの信仰が、キリストがご自身の任務と権威を託され、後ほどその権威を後継者たちに引き継いだ使徒たちから私たちに至っていることを強調しています。今日の司教たちは使徒らの直接の後継者であり、彼らの使徒の任務を司祭たちと共有します。「私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように」という挨拶の言葉を聞くと、私たちは、聖パウロの時代から続くこれらの言葉で挨拶を交わしてきた教会の歴史の数々の聖人たちとの親交に気づくのです。
「あなたとともに」/「あなたの霊とともに」
最後に、この挨拶に対する私たちの応答「またあなたとともに」について考察しましょう。この言葉は、もともとミサのラテン語のテキスト「またあなたの霊とともに」(et cum spiritu tuo)という表現を言い換えたものです。これは聖パウロが使った挨拶の言葉にもしばしば現れる表現です(ガラ6:18)。「あなたの霊とともに」と言う表現は、聖書ヘブライ語においては「あなた自身」という意味に解釈することができます。とはいえ、古代教会はパウロの用いた表現を、そのまま教会の典礼に取り入れられ現在に至っています。そこには単に基本的な相互のやりとりのように、「あなたにも、神さまがともにおられますように」という意味合い以上の何かが含まれています。「あなたの霊とともに」と言うことによって、信仰者は、聖なる典礼の間、司祭叙階の際に与えられた聖なる力によって、「主があなたともにおられる」と宣言するところの司祭を通して聖霊が特別な働きをしていることを認めているのです。真の意味での司祭とは、ただ一人、キリストご自身のみです。キリストを代理する者は、彼の聖なる任務をつつがなく遂行するために聖霊の恩恵によって整えられていなければならないのです。ですから単なる「あなた」ではなくあなたをキリストの祭司とされた「あなたの霊」と共になのです。
とはいえ、日本語でこれらの事柄を表現するのは非常に難しい課題です。仮に「あなたの霊」と直訳を用いた際、的確に聖書的な意味を察知できるかは疑問ですし、そもそも「霊」という言葉が、多くの日本人に正確な意味合いで感覚的に受け止められるかは難しいように思います。その意味で、ともかく日本の教会として選択した表現を用いることは賢明と思います。ただその際に、本来のミサの式文の言葉に込められた意味を知っておくことが大変重要になってきます。
次回第6回は、「あわれみの讃歌」と「栄光の讃歌」です。(続く)
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