天使は腕の中②

 一日中、夢でも見ていたような気分だった。下宿先の学生マンションに帰り着き、ベッドにごろりと転がって、伊織はそんなことを考える。
 結局、遼は三回も衣装を着替え、バラ園の端から端まで歩き回って写真を撮った。伊織も荷物持ちとして二人について歩き、ここ数日で一番よく歩いた日だったと思う。両脚が何となく重い。
 伊織が撮った写真は、桃寧が撮った枚数と比べればほんの僅かなものだ。ベッドの足元に放り出したボディバッグを引き寄せ、スマートフォンを取り出す。画像フォルダを開くと、今日撮影した写真は、遼の姿ばかりだった。バラ園に行ったのに、バラを撮った写真は一枚もない。最初の、白いシフォンワンピース姿の写真が半分以上で、他の衣装はせいぜい、二枚か三枚くらいしか撮っていなかった。自分の趣味を目のまえに見せつけられたような気がして、背中がむず痒くなる。
 シフォンワンピース姿の写真を、一枚拡大する。遼が体ごと伊織を振り向いた瞬間。ショートボブの毛先がぱっと跳ねて、体の動きに合わせてワンピースの裾がふわりと膨らんだ、ほんの一瞬を切り取った写真。ワンピースの裾から覗く丸い膝が、細い腿が、太陽の光に白く輝いている。
 思わず、ごく、と唾を飲み込んだ。一〇代の少女よりも清純で健全なのに、背徳すら感じる。これがあの、いつも同じ職場で働いている、あの久米さんなのか。
「……勃ちそう」
 誰に聞かせるでもなく、伊織は呟いた。腰元が落ち着かない感じがする。スマートフォンを放り出し、もぞもぞと寝返りを打った。相手は久米さんだぞ、と頭の中で繰り返す。あんなに少女のようで、白い腿が背徳的で、でもあの人は、同じ職場の先輩だ。何度言い聞かせて自分を宥めようとしても、じりじりと燻るような熱が体の内側に溜まっていく。
 これではいけない。こんなことをしてはいけない。そう思いながらも、手はチノパンの前を寛げていく。やめろ、そんなことをしてはだめだ。左手が、硬さを持った熱を扱く。あんな少女のようななりをして、久米さんは大人だ。自分よりも年上なんだ。自分よりも大人の――
 一瞬、思考が止まる。遼は女性なのだろうか。幼く見えるだけの女性なのか、いや、それとも男性かもしれない。少女のような見目をして、シフォンワンピースが似合う、自分より年上の成人男性なのかもしれない。
「っふ、ん」
 食いしばった歯の隙間から息が漏れる。倒錯と背徳。久米さん、と呟く。彼、もしくは彼女、いや、彼でも彼女でもない、久米さんは久米さんだ。久米さんに欲情している。白いバラのような、清純な香りを纏っているような、少女のような少年のような。
 スマートフォンの画面が視界に入る。ワンピースの裾から覗く白い脚。
「い、く」
 手のひらに、温かく濡れた感覚が広がっていく。やってしまった。バイト先の先輩で、自慰をしてしまった。
 熱を解放したことで少し冷静さを取り戻した頭が、伊織を責め立てた。なんてことをしたんだ。お前はバイト先の先輩で抜くような男だったのか。男性か女性かも分からないのに。
「はあ……」
 ため息を吐いて、枕元のティッシュボックスを引き寄せる。べたべたになった左手を拭って、あらん限りの力を込めてゴミ箱に投げ込んだ。コントロールの狂った手は、丸めたティッシュペーパーをゴミ箱から一メートルほど離れたところに叩きつけた。
 ひどい嫌悪感と後悔が、じわじわとせり上がってくる。明日、どんな顔をして書店に顔を出せばいいのだろう。遼は昼勤に入っていたはずだし、伊織も夕勤に入っている。また性的な目で見てしまったらどうしよう。思っても言わなければ遼には分からないかもしれないが。
 後ろ頭をずりずりと枕に擦りつけて、伊織は呻いた。

「昨日は楽しかったね」
 翌日、出勤してきた伊織を見るなり、遼はそう言って微笑んだ。
「そう、ですね」
 伊織も曖昧に笑って返す。笑いながら、胸の奥が軋んだ。昨日、遼を自慰のネタにしたことを思い出して、罪悪感が顔を出す。
 ――言わなければいい。言わなければ、分からない。
「モモちゃんとまた今度、次は違うところで撮影会しようって話をしてるんだけど」
「そうなんですか」
「矢吹くんも来るよね?」
「えっ?」
 思わず聞き返した伊織の前で、遼はにこにこと笑っている。赤いピンで留めた髪を指先で撫でながら、いつもと変わらない調子で口を開く。
「だって、すごく楽しかったもの。モモちゃんも楽しかったって言ってたし、矢吹くんも楽しかったでしょう?」
「ええ、まあ……」
「じゃあ、スケジュールが合いそうならまた来てよ。僕も楽しみなんだ」
 遼には、断られるという前提はないようだった。伊織も断る理由が見つけられなかった。
「また日付は言うから」
 チンチン、と呼び出しベルの音が聞こえて、遼はカウンターの方に小走りで向かっていく。後ろ姿を見送りながら、伊織はまた、ワンピースの裾から覗くあの白い腿を思い出した。ぞわ、と背筋を悦のようなものが駆け上がって、
「……だめだめ」
 誰にも聞こえないように、小声で呟く。遼に欲情している自分が、伊織は嫌だった。
 数日、伊織と遼は勤務日が重なっていた。事務所や売場で顔を合わせるたび、伊織は何だか申し訳ないような気持ちになった。遼がどう思っているのか、気づいているのかはさておき、自分が遼で自慰をしてしまったという事実を、顔を合わせるたびに伊織に思い出させた。遼が気づいているのかということについては、もう伊織には関係なかった。自身の中で膨らむ罪悪感をやり過ごしながら、これ以上余計なことを考えてしまわないようにと思う。
 週明け、大学では桃寧が、また同じように学生食堂の隅の席でパソコンを開いていた。伊織が覗き込むと、遼を被写体にした写真が画面いっぱいに並んでいる。
「すごく良い写真が撮れたなって思って」
 桃寧は上機嫌だった。伊織は適当に相槌を打ちながら、桃寧の邪魔をしないように教科書を開いた。売店で買ってきた焼きそばパンの、真ん中に盛られた紅ショウガがやけに辛く感じた。
「次も来るでしょ?」
「久米さんにも同じこと言われたんだけど」
「次はさ、スタジオ借りて撮ろうと思うんだ」
「本格的だね」
「安く借りられるところ見つけたから、一回行ってみたくて」
 教科書の中身は、ほとんど頭に入ってこなかった。また遼の、いつもの黒いエプロンと違う姿が見られるのかと思うと、そればかりが気になった。
 興味のない授業を、また頬杖をついて聞きながら、伊織は遼のことを考えた。遼も同じ大学の卒業生なら、この教室で授業を受けていたのかもしれない。学部が違っても、同じ教室を使うことはある。
「矢吹、授業聞いてないでしょ」
 小声と共に横から桃寧の手が伸びてきて、指先が伊織の教科書のページを勝手にめくった。もう五ページも遅れていた。黒板の文字もすっかり書き換わっていて、伊織は慌ててルーズリーフに書き写した。写したところから、教授の手が文字を消していった。
 授業中に何を考えていたのか、授業が終わって次の教室に移動する間に桃寧に聞かれても、伊織は答えられなかった。代わりに、
「久米さんってさ、女の人?」
 そんな質問を口にする。桃寧は首を傾げた。
「ああ、どっちなんだろう。気にしたことなかったかも」
 伊織は少し驚いた。
「気にしないの?」
「気にしないっていうか、どっちでもいい、みたいな感じかな。女性って言われたら女性に見えてくるし、男性って言われたら、ああそうかも、みたいな」
 桃寧は首を傾げたまま「でも」と言葉を続ける。
「どっちでもいいんじゃないかな。本人に聞いたことはないけど、わざと分からないようにしているのかもしれないし」
「わざと、分からないようにする?」
「男とか女とか、決めつけられるのが嫌とかさ。知らないけど」
 本当に興味がないのか、桃寧はそれ以上は続けなかった。伊織も返す言葉が見つからなかった。

 数日、伊織は悩んだ。悩んでいる間に、三回、また遼をネタにして自慰をした。
 遼が男性だろうが女性だろうが、伊織には関係のないことだった。遼が男性もしくは女性であることで、何か態度を変えるわgけでもない。伊織に何か影響するわけではない。
遼自身も、どちらでもいいと思っているのかもしれない。そうでなければ、少女っぽいワンピースと少年風のパンツスタイルの、両方を選択することはない、と伊織は考えていた。実は女性であって、しかし男性でもある、そんな複雑なものかもしれない。
「最近、何か悩んでいたりするの?」
 遼に尋ねられても、伊織は誤魔化したような返事をするしかなかった。ごく個人的な事柄だ。本人に聞いていいことかも分からない。
「たいしたことではないですよ」
 そう返すと、遼はちょっと不満そうな顔をして、何か相談したかったらいつでも言ってね、と言った。

 次の撮影会の日程と場所は、桃寧から伊織に伝えられた。バラ園に向かうのとは逆方向の電車に乗って、伊織はスタジオに向かった。桃寧と遼は、先に着いて準備をしていると連絡があった。
「遅いよ」
 貸スタジオの中は、黒一色だった。黒い壁、黒い床、黒い天井。桃寧も黒い服を着ている。
「黒いね」
 伊織が思ったままを口にすると、衣装に着替えかけていた遼が笑った。
「僕も思ったよ。聞いてはいたけれど、あんまり真っ黒だから笑っちゃった」
 遼の今日の衣装は、鮮やかなショッキングピンクのチューブトップと、デニムのホットパンツだった。脚はストッキングも穿かないまま、白い肌を晒している。胸元が丸く膨らんでいるのを伊織がつい見ていると「詰め物してるんだ、偽物だよ。僕はそんなに胸ないからね」と遼がまた笑った。
「遼さんはなくていいんですよ、その方がずっと幼く見えるから」
 カメラのセッティングをしながら、桃寧が言う。
「童顔で巨乳だったら、すごくいやらしい感じがするじゃないですか。遼さんは『つるぺた』でいいんですよ」
「つるぺた……」
 伊織が繰り返している横で、遼は詰め物で作った乳房を揉んで遊んでいた。

 夜、帰宅した伊織は、また遼をネタにして自慰をした。
 最初は強く感じていた罪悪感も、回数を重ねるといくらか薄れていた。デニムのホットパンツに収まった小さな尻と、白くなめらかな脚をぼんやり思い浮かべると、それだけでぞくぞくと、背筋を悦が這い上がって伊織を昂らせた。
「こんなことじゃあ……」
 遼を自慰のネタにする罪悪感よりも、遼に欲情していることがいつか本人にばれてしまうことの方が、伊織には日に日に恐ろしく思えてきた。遼はどう思うだろうか。気持ち悪い、卑しいと言って、伊織を軽蔑するだろうか。考えてはいけないような気もしたが、つい考えてしまうと、もうそれしか考えられなくなった。
 あの薄い、花弁のような唇で、遼に軽蔑の言葉を投げつけられる。それは確かに、伊織にだけ向けられる言葉になるだろう。その間、伊織は遼を、独り占めしていることになるのかもしれない。
 遼をどうこうしたいという気持ちは、伊織にはなかった。代わりに、もし遼にこうされたら、言われたら、という想像をすると、それだけで気持ちが満たされて、さらに想像が膨らんだ。
 蔑む言葉を、遼はどんな顔で、どんな表現を選んで発するのだろう。あの穏やかな、丸い大きな目が、羞恥と嫌悪の入り混じった色を浮かべて伊織を見る。好きだとも言われていないのに、嫌いと言われる想像もした。伊織も遼のことが、好きなのかどうかは分からない。少なくとも職場の先輩後輩の関係は超えて、友人のような関係だろうとは思っているが、恋愛的な好意を持っているような気はしない。好きの反対は無関心とは言うが、しかし無関心ということもないだろう。関心を持っていない相手に、少なくとも伊織だったらわざわざ話し掛けたりはしない。
 不毛な想像を広げているうちに、時計の短針は真上を通り過ぎた。

「久米さんって、彼氏とかいるんですか」
 そう尋ねる声を聴いたのは、偶然だった。伊織が発した言葉でもなければ、もちろん桃寧でもない。
 書店の事務所に入る直前、そんな声が聞こえて、伊織はドアを開けようとする手を止めた。男性の声だった。今日の昼勤は女性スタッフばかりだったはずだから、きっと伊織と同じ夕勤のスタッフだ。
「うん? なんで?」
 遼が質問に質問を返している。伊織は聞き耳を立てた。
「オレ、久米さんのことが好きなんです」
 そんな言葉が続くことは、伊織も想像できていた。そして同時に、やはり夕勤の、大学生スタッフの声だとも判断した。あまり話したことはないが伊織とは違う大学で、工業大学に通っていると聞いたことがある。
「もし、久米さんに彼氏とかいないんだったら、付き合ってください」
 切羽詰まった声だった。ああ聞いてしまった、と伊織は思った。他人の告白の瞬間なんて、聞きたくて聞けるものではないかもしれないが、聞きたいものでもない。しかも相手は遼だ。ここ最近、伊織がずっと気にしている相手だ。
 遼の返答が聞こえてくるのを、伊織は待った。売場のBGMのジャズだけが聞こえてくる。きっと事務所の中でも、同じように遼の返答を待っているのだろう。
「あは、ごめんね」
 少し笑うような調子で、遼が言葉を発した。
「僕はそういう目で、君のこと見てないし、見られないよ。誰か付き合ってる人がいてもいなくても、それは変わらないね」
「……そう、ですか」
 伊織は胸を撫で下ろした。別に何かあるわけではないが、遼が承諾してくれなくてよかった、とも思った。伊織は事務所のドアを軽くノックした。
「おはようございます」
「あ、おはよう、矢吹くん」
 いつもと変わらず、遼は事務用のパソコンの前に座っていた。遼に告白をした彼は、一瞬驚いたように伊織を振り向いて、そしてそそくさと事務所を出ていった。
「もしかして、聞こえてた?」
 彼の姿が見えなくなってから、遼が伊織に尋ねた。伊織が躊躇いがちに頷くと、ふふっ、と悪戯っぽく笑う。
「別に聞こえててもいいんだけどね、あんなことくらい。でも僕は、あの子には興味ないかな」
「そうですか」
「それよりも、あの子は僕のこと、女の子だと思っているんだね」
 タイムカードを打刻しながら、伊織は遼を振り向いた。
「僕、自分が女の子だって言った覚えは、ないんだけどなあ」
「じゃあ、男性なんですか?」
 思わず尋ねる。遼はちょっと肩をすくめた。
「さあ、どっちだろうね。それって関係あることかな」
「関係?」
「僕が『久米遼』でいるにあたって、別に関係ないことだよね。僕が『遼くん』でも『遼ちゃん』でも、誰にも関係ないことだと思うんだけど、どう思う?」
 質問を返されて、伊織の思考がフリーズする。最適解を導き出そうとしても、頭が回らない。
 遼が薄く笑みを浮かべた。
「僕が男性でも女性でも、僕は僕、君は君。そうでしょう?」
「そう、ですけど……」
「じゃあ、どっちでもいいよね」
 話はここまで、と言わんばかりに、遼は視線を外した。そのままパソコンに向き直る。掛ける言葉が見当たらなくて、伊織も売場に出た。さっき遼に振られた彼が、ライトノベルの棚を整理しているのが見えたので、ドンマイ、と心の中で伊織は声を掛けた。

 学内の写真コンテストにまた応募をしたのだと、桃寧が伊織に言ったのは授業の合間の休憩時間だった。
「久米さんの写真?」
「もちろん。すごくいいモデルだなって、何回撮っても思うんだよね」
 桃寧は両の手で、カメラを構えるポーズをしてみせた。伊織がピースサインをして見せると「君も撮られたいの?」と真面目な顔をして聞いてくる。
「俺のことは撮らなくていいよ」
 手をひらひら振りながら、伊織が言う。桃寧も手を下ろした。
「また撮影会するの?」
「うーん、そのつもりだったんだけど」
「つもり?」
 濁った返事に、伊織は首を傾げた。
「本当はね、来週末にって予定してたんだけど。遼さんが、ちょっと先延ばしにして欲しいって。遼さんから延期の申し入れがあるのって、珍しいんだけど」
 桃寧も首を傾げる。
「何か予定とバッティングしたとかじゃないの?」
「そうだったらいいんだけど」
 桃寧が少し眉を寄せた。
「もし、モデルをするのがもう嫌とかだったら、どうしよう」
「そんなことある?」
「分かんないけどさ、ないとは限らないじゃん」
 それは桃寧が一番恐れていることかもしれなかった。遼の写真ばかりを撮っているのに、その被写体である遼に拒まれたとしたら。
「まあ、そんなことないって、あの人に限って。嫌なんだったら素直に嫌って言うと思うよ」
「そうかな」
「予定が合わなかったんだよ、きっと」
 慰めになってるのか分からないまま、伊織はそう言葉を掛けた。桃寧が納得しているのかは分からなかった。「

 遼はいつもと変わらない様子だった。伊織が書店の事務所に入ると、遼は大量のコミックを詰め込んだコンテナと段ボール箱に囲まれていた。
「どうしたんですか、これ」
「明日発売の新刊だよ」
 挨拶よりも先に伊織が尋ねると、遼はコミックに一冊ずつポストカードを挟みながら答えた。
「明日の朝に並べられるように、初回特典のポストカード挟んで、シュリンク掛けておこうと思って」
「ああ、なるほど」
「手伝ってもらってもいい?」
 コミックの真ん中辺りのページに、ポストカードを一枚ずつ挟んでいくだけの、単調な作業だった。ほとんど思考が止まっていても、手さえ動けば作業は進められた。
「矢吹くんってさ」
 ポストカードを挟みながら、遼が口を開いた。
「彼女とか、いるの?」
「何ですか急に」
「気になったから」
 同じようにポストカードを挟みながら、伊織は首を横に振る。
「いませんよ。高校卒業したときに振られて、そこからずっといません」
「モモちゃんは彼女とかじゃないんだ?」
「徳田はただの友達ですよ。同じ学部の同期です」
「お似合いだと思ったんだけどなあ」
 伊織は一瞬、桃寧と付き合うことを想像した。手を繋ぎ、キスをして、体を重ねる。最後までは想像できなかった。
「あいつとは、そんなこと出来ないです」
「じゃあ、誰となら出来るの?」
 手を動かすスピードは変わらないまま、遼はまた質問を投げてくる。伊織の手が滑り、ポストカードがばらばらと床に散らばった。
「誰、と、ですか」
「そう」
 遼は手元から、顔を上げなかった。伊織はポストカードを拾い集めながら、ぐるぐると思考を巡らせた。誰と。誰となら、そんなことを出来るだろう。手を繋いで、キスをして、体を重ねて。
 再び作業をしながら、遼の表情をちらりと窺った。遼なら出来るかもしれない、と一瞬思って、いや、と思い直す。遼なら出来るかもしれないけれど、出来ないかもしれない。確かに出来ると言い切る自信は、なかった。遼は出来るかもしれないが、考えれば考えるほど、伊織自身は出来る気がしなかった。手を繋ぐことは出来るかもしれないが、唇と唇が触れ合う瞬間を想像すると、恐怖のような感情がせり上がってくる。キスでそんななのに、それ以上のことが出来るとは、とてもではないが思えなかった。
「……分かりません」
 ポストカードを全て挟み終える頃に、伊織はやっとそう返した。そう返すことしか出来なかった。心臓が妙にどくどくと脈を打っているのが聞こえた。
「それでいいと思うよ」
 シュリンク包装機の電源を入れながら、遼は静かに言った。さら、と耳に掛けていた髪が落ちる。
「僕も分からないから」
「何で聞いたんですか」
「矢吹くんなら、どう答えるかなって思ったんだ」
 透明なフィルムの掛かったコミックが、機械から一冊ずつ吐き出される。
「……、だよ」
「えっ?」
 遼が何か呟いたように聞こえて、伊織が聞き返す。遼は黙って、首を横に振った。

 閉店作業を済ませ、伊織が書店を出る頃には、空は灰色に曇っていた。ほんの僅かな隙間から、ちら、と星が瞬いているのが見える。
「雨降りそう……」
 チェーンロックを外し、クロスバイクに跨る。ぐい、と漕ぎ出すと、夜風が頬を撫でた。帰ったら夕飯と、課題のレポートを済ませて、時間があれば寝るまでの間はゲームがしたい。そうだ、ゲームをするまでに風呂を済ませておかないといけないな。いや、レポートをする前に風呂に入ろうか。
 クロスバイクを漕ぎながら、ふと、伊織は顔を上げた。そういえば今日は、遼はシフトの時間通りに仕事を終えて帰っていった。ここ最近、勤務に入っているときはいつも残業続きで、店長からもたまには早く帰れと言われていたような気がするが。
 ぽつ、と額に冷たいものが当たる。雨だ、と思う間もなく次のしずくが落ちてくる。ペダルを漕ぐ脚に力を込め、スピードを上げる。
 ――誰となら出来るの?
 コミックにカードを挟みながら。遼は何のつもりで、あんなことを言ったのだろう。誰となら、誰となら。
 スピードを緩め、交差点を渡る。じゃっ、とアスファルトとタイヤが擦れる音がする。
 ――誰となら出来るの?
 誰となら。静かな声が、風の中で耳に蘇る。誰となら。桃寧? いや、それとも遼?
「誰と、なら……」
 雨粒が当たる間隔が、短くなっていく。書店から下宿先のマンションまで、急いでも一〇分はかかる。
 そもそも、遼は『何を』出来るかを言っていなかったのではないだろうか。先に『あいつとはそんなこと出来ない』と言ったのは伊織の方だが。
 雨脚が激しさを増していく。思考が流れ落ちていく。

 翌日、伊織が大学の大教室に着くと、桃寧はだいたいつもと同じような後方の席を陣取って、朝食のメロンパンを食べていた。
「おはよ、徳田」
「あ、矢吹。おはよう」
 軽く咀嚼したパンを、野菜ジュースで流し込む。桃寧を見ながら、伊織は自分が朝食を食べてこなかったことを少し後悔した。食べる気になれなかったという方が正しいのだが。
「どうしたの? 寝不足?」
「え?」
「すっごいボーッとした顔してるよ。いつもしてるけど」
 一言余計だ、と言いそうになって、伊織は踏みとどまった。ぼんやりとしている自覚はある。普段からそんなにはきはきとしている覚えもない。それに、実際のところ寝不足だ。
 昨夜は眠ろうとするたびに、遼のことがちらちらと脳裏を過った。誰となら出来るの、と尋ねてくる遼の、真剣で、かつ静かな目が、何度も何度も思い出されて、眠るに眠れなかった。お陰で一晩中、伊織は『誰となら交際できるか』を考える羽目になった。
 何度も何度も候補として思い浮かんだのは、桃寧だった。桃寧とはだいたいどんなことでも話せる。大学の入学式が初対面だったが、まるで以前から知り合いだったかのように気安く話せたことを覚えている。それは桃寧が元来フレンドリーな性格をしているからかもしれないし、郷里を遠く離れて下宿を始めた伊織が、心のどこかで寂しさを感じていたためかもしれない。
 しかし、桃寧はだめだ、と途中で何度も思い、そのたびに思考が止まった。桃寧との関係は、あくまで友人としてのものだ。男女として付き合うとか、そういう関係は、伊織にはどうしても受け入れられそうになく思われた。もしかしたら、今の安定した関係を壊すことを恐れているのかもしれない。
 桃寧と同じくらいの回数、遼と交際することも想像した。遼と手を繋ぐこと、キスをすること、それ以上のこと。遼をネタにして何度も自慰をしたとは思えないくらい、何か思い浮かべるごとに伊織は顔を真っ赤にして、ベッドの上でのたうち回った。桃寧とキスをすることを想像する以上に、想像で遼としたキスは刺激的に思われて、それだけで自慰できそうなくらいだった。
「……ちょっと、なんとなく眠れなかったんだ」
 誤魔化すように、伊織は笑った。野菜ジュースのパックに刺したストローを唇に挟んだまま、桃寧も笑う。
「この授業終わったら、次は夕方までないんでしょ? 一回帰って寝たら?」
「考えとこうかな。なんかそのまま夜まで寝ちゃいそうだけど」
「矢吹ならやりそう」
 くっくと笑う桃寧は、確かに可愛らしかった。でもやはり、彼女とキスをすることは、伊織にはうまく想像できなかった。

 週末、伊織は珍しく、開店から夕方までの昼勤のシフトに入った。
「あれっ、珍しいね、矢吹くんが朝からいるなんて」
 開店準備を始めていた遼は、伊織が売場に出てきたのを見て目を丸くした。
「俺も珍しいと思います」
「あー、あれだ、いつも入ってる田之上(たのかみ)くんが今日は休みだから」
 田之上というのは、遼に告白をして、そして振られていた彼である。週末の昼勤のシフトには大抵入っているのに、今日は希望休を出していた。
「そっちのコンテナの中身出してもらっていい? 昨日に注文しておいた文房具が、今日もう入ってきたから」
「分かりました」
 遼に言われるまま、伊織はプラスチックのコンテナを開く。ボールペンやノートやハサミが、混ぜこぜに詰め込まれたコンテナを覗き込んで、小さく息を吐いた。納品書と照らし合わせながらひとつずつコンテナから取り出し、陳列時に持ち運びやすいようにカゴに移していく。
「そういえば、矢吹くん」
「はい」
 少し離れたところから、遼の声だけが聞こえる。今日の開店準備の担当は、遼と伊織の二人だけだ。
「誰となら出来るって話、答えは出た?」
 ぽろりと、伊織の手からボールペンが滑り落ちた。
「……えっと、その」
「考えてないっていうなら、別にいいんだけどね」
 顔を上げて、辺りを見回す。遼は少し離れた棚の反対側にいるようだった。開店前でBGMも流れていない店内では、多少離れていても声は聞こえる。
 伊織は言葉に詰まった。何と言えばよいのだろうか。何と返すのが、最適解なのだろうか。考えはした。考えはしたのだが、結局のところ『誰となら』の答えは出ていない。
「考えは、した、んですけど」
「そっか」
 遼は答えを持っているのだろうか。落としたボールペンを拾いながら、伊織はぼんやりと考える。
「僕はね、考えてみたんだけど」
 付録付きの月刊誌に手際よくゴムバンドを掛けながら、ひょこ、と遼が棚の向こうから顔を出した。伊織が手を止める。答えは、出たのだろうか。
「一応、答えは出たかもしれない」
 にこっと笑う遼の顔が、奇妙に恐ろしいものに思われて、伊織は唾を飲んだ。答えを聞くのも、聞かないのも、恐ろしい気がした。
「矢吹くん、今日の仕事終わってからって、何か用事ある?」
「いや、ない……です、けれど」
「ちょっと付き合ってよ」
 ――死刑宣告かな?
 伊織は思ったが言わなかった。
 勤務中の伊織の集中力は、最悪だった。レジを打っている間はともかく、棚の整理や掃除をしている間はずっと、遼のことばかり考えていた。
 遼が出した答えは何なのだろうか。仕事が終わってから、遼はそれを教えてくれるのだろうか。それとも、関係のないことだろうか。ぐるぐると考えながら、それでも予想の範疇は超えないまま、時間だけが過ぎていく。目線はつい遼を追ってしまい、遼に話しかける人間は全て、例え客でも敵に見える気がして仕方なかった。時間が過ぎるのが遅くも早くも感じられた。
「それで、どこか行くんですか」
 タイムカードに退勤を打刻するときになって、伊織はようやく遼に尋ねた。遼はもう帰る準備をしながら、んー、と小さく声を発する。
「ちょっとここでは言えないかな」
「はあ……」
 二人連れ立って、店を出る。ちょっと待ってください、と言って、伊織は乗ってきたクロスバイクを回収した。
「久米さんって、いつも歩いて来てるんですか?」
「バスだよ。歩いて来るには、ちょっと遠いかな」
 そう言いながら、遼はバス停とは逆方向に歩いていく。伊織もクロスバイクを押しながら、遼の隣を歩いた。幹線道路沿いの歩道は広い。
「どこ行くんですか?」
「どこだと思う?」
「質問に質問で返さないでくださいよ」
 道路の先に何があったか、伊織は思い出してみる。回転寿司、ボウリング場、パチンコ屋、それからラブホテルが数軒。ここから先は、普通の店と同じくらいの数のラブホテルが並んでいる。
「……まさか、とは思うんですけれど」
 躊躇いがちに口を開いた伊織に、ふふ、と遼は笑う。
「矢吹くんは童貞?」
「いえ、一応……卒業はしてますけれど」
「じゃあ大丈夫だね」
 何が大丈夫なのか分からない。遼がどんどん歩いていくので、伊織も立ち止まるわけにはいかずに足を進める。
「ねえ、僕とそういうことが出来るか、想像した?」
「そういうこと、ですか?」
「手を繋ぐとか、キスをするとか、それ以上のこととか、さ」
 遼の声は軽やかで、横を自動車が通るとそれに搔き消されそうだった。
「想像、しました」
「それで、どうだった?」
「それは……その」
「出来そうだった?」
 遼が質問を重ねてくる。伊織がもごもごと口ごもっていると、遼の大きな目が伊織を見上げてきた。
「僕はね、想像したよ」
 薄い唇が、ふわりと曲線を描く。
「僕は想像して、そして君なら、出来ると思ったんだ」
「どうして……」
 ぴた、と遼が足を止める。
「どうしてって言われても、出来そうだと思ったから、としか言いようがないかな。君となら出来ると思ったんだよ」
「俺は、その」
「ほら矢吹くん、こっちだよ」
 道沿いの建物を、遼は指し示した。入口の脇には『休憩・三五〇〇円~ 宿泊・七六〇〇円~』と看板が掲げられ、ドアには『一八歳未満立入禁止』の赤いステッカーが貼られている。伊織の知っている限りでは間違いなく、ラブホテルだった。
「僕が想像した通りに出来るか、実証を手伝ってよ、矢吹くん」
 にこっと微笑んで手を引かれると、もう伊織には、断るきっかけが見つけられなかった。駐車場の隅にクロスバイクを停める。これから起こることは全部夢なんだ、と心の中で念じた。

 それから何が起きたのか、伊織はあまり覚えていない。
 一番安い部屋で、ダブルサイズのベッド一台に二人で入って、手を繋いで、キスをして、それ以上のこともした。遼の薄い唇は見た目よりも柔らかく、指先は体温が低かった。
 もうただの先輩後輩に戻れないね、と事が終わった後にベッドの中で遼に微笑まれ、そうですね、としか返せなかった。実証出来ましたか、と尋ねると、想像よりずっと凄かったよ、と遼ははにかんだ。もう一度キスをしていいですか、と尋ねると、返事の代わりに唇が近づいてきて、伊織の唇に重なった。
 一線を越えたことは、桃寧には言えないな、と伊織はぼんやり考えた。考えながら、遼を腕の中に抱き寄せた。
 あの日の天使が腕の中にいるとは、想像したこともなかった。

(了)

良ければサポートお願いします。お茶代とか文房具代に使わせていただきます。