社会からの斥力を受け、生きてきたが

どうせ社会から浮いてしまうなら、その浮力を斥力として、自ら社会からの逸脱を目指す、みたいなのが人生のモチベーションとしてあったりした。
自分なりの積極思考。

しかしながら、それは壊れてしまった。

自分と社会の間に確かな距離があって斥力が発生していた、そういう想定だったのに、一地点たる社会が拡散して自分を「通り越して」しまった。
ひとまずの「正しいもの」としてのの社会があったはずなのに、自分には今「正しい」の輪郭すら見えない。
全範囲「社会」に包まれた無重力空間だ。
自分の人生に曲がりなりにも指向性をもたらしてきた斥力を失ってしまった。
今や「社会」が自分を「逸脱」したかの如くだ。

「人生は果敢に、アノミーは打ち払う。」

人生の新しい着想があった。
人生は目指すべきところにたどり着くことだと思っていた自分にとって、それに対するメタな人生観。(人生は「指向性」ではなく。)

人は「運否天賦」をもって、絶対的に動くことができない一地点に生まれてくるということ。
何がメタか。
それは己を己づけた「運否天賦」を「生きるため」にフランクに「行使」していいということ。
「何かがおきるかも」、そんな「思い付き」が行動の「正当な理由」になる。

こんなnoteのその一端。

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