「風呂から出られない人の話」


最近の悩みは、風呂から出られないことです。

そう全世界に発信したら、一体どれくらいの人が共感してくれるだろうか。


寒い。こんな日は湯船にお湯をいっぱいに溜めて浸かるに限る。シャワーだけでは辿り着けない、体の芯の奥深くまで温まりたい。しかし、風呂は入ったらそこで終わりではない。風呂は恐ろしい。人殺しの悪魔といっても過言ではない。特に風呂は、人間が湯船から出ようとする時に牙を剥く。生半可な気持ちで湯船に入ると、風呂に食われてしまう。

一度浸かると、これ以上ない温かさに包まれる。ここで気をつけなければならないのが、絶対に目を閉じてはいけないということだ。いくら気持ちが良いからといって、うっかり目を閉じてしまうと最後、二度と開けられないと思った方がいい。瞼が鉛のように硬直して動かなくなる。風呂から出られない。その事実に気づいたとき、既に風呂の捕食は始まっているのである。

風呂が人間を食う合図があるのを、私は知っている。時間が経つにつれ、湯船の中のお湯が冷めていくのだ。ぬるま湯と化した湯船から出ようとすると、ぬるま湯よりもっと寒い空気が待ち構えている。

大きく身震いして、湯船に戻る。おかしい。なぜだ。なぜ風呂から出られないのか。こんなにも快楽と苦痛を同時に味わえるのは、風呂とDV彼氏を溺愛する彼女しか思い浮かばない。ということは、風呂は実質DV彼氏と同じではないか?と、訳の分からない思考に陥る。そんなことを考えている場合ではない。一刻も早く、風呂から脱出する方法を考えなければ。


鼻と口に水が入ってきた衝撃で目を開ける。痛い。さむい。眩しい。私を包む熱々のお湯はすっかり冷え、ほぼ水だった。一度湯船であたためられた体温も、朝まで布団で眠る時間も、何もかも奪われ、虚無感と罪の意識だけが残っている。壁や天井一帯には、湯気が蒸発したときの水滴がびっしり付いており、手指には痛みを感じるほどの皺が濃く刻まれている。

ああ、また風呂に食われたのだ、と悟った瞬間から、今日も私の朝は始まった。



 あ~~~~!もうやだやだやだ!!消えたい消えたい消えたい!!お前もお前もお前も皆消えろ!!そして自分も消える!はいこれで万事解決ありがとうございましたこんなクソみたいなバイト先とっととやめてやるー!!!


「伊久間です。今日も一日お疲れ様でした。お先に失礼します。」

 やばい、半泣きだったから声震えた。

 力任せにタイムカードを刺す。退勤の音、そう心の中で呼んでいる。退勤時刻が打たれるこの瞬間の解放感と爽快感と達成感たるや。いつもはただの淡泊なこの機械音が、今日は震え声をかき消すかのように庇い、寄り添って慰めてくれているようにさえ聞こえた。

ホールから逃げるように休憩室に続くドアを開け、入ると同時に今まで水中にいたかのように溜めていた息を一気に吐き出した。

 いや無理なんだけどこんなやらかす人間他にいる?いないよ。いないよテイクアウトでキャラメルプリン4個ミルクプリン4個計8個の注文が入ったのに16個16個計32個で通す奴なんて!何で掛け算したんだよ!店長からは確認しろってまた注意されたけどしたわ!ちゃんとハンディ打つときに間違えてないか前にも言われた通り確認したわ!!とは言えるはずもなく。確認はした。のに間違えた。多分頭回ってなかった。お客さんは30分以上待たせるわ店長に呆れられるわ社員に説教されるわでもう最悪。お陰で早くあがれたのはいいけど先月入ってきた優秀な後輩はまだホールに居座って給料を稼いでいると思うと鬱。そもそも閉店直前にテイクアウトなんか注文するのがいけないんだ。はあ。飲食バイト向いてない。そもそも自分が無能だってことが証明されたんだし早いとこ辞めた方がwin-winなんじゃ

 ぐぎゅるるるるる

 そうだ、賄い貰うの忘れてた。慌てて引き返そうとしたが、自分が目に涙を限界まで溜めて酷く情けない顔をしていることを思い出した。

 今戻るのは、気まずい。落ち着いてから行こう。

 ドアから入ってすぐにある階段を上り、休憩室に向かう。靴を脱ぎ、パイプ椅子に崩れるように座り込むと、今日溜まった疲れがじわりと溶け出してくるようだった。今日あったことを思い出すだけでいてもたってもいられなくなり、全身を掻きむしりたくなる衝動に駆られる。

 息を整えようと鼻からゆっくり深呼吸すると、ずびずびと音を立てて空気が思うように入ってこなかった。とりあえず鼻をかまないと。零れかけている涙も拭きたい。確か最近大学の門の前で自動車学校の職員にポケットティッシュを貰い続けている分が溜まっているはずだ。

 ロッカーの中からリュックを出し、中を探る。ない。そういえば丁度昨日全部取り出して家に置いたことに気づいた。

 タイミングが良すぎにも程があるだろ!本当に必要な時に限って手元にない、人生のあるある鉄板ネタを出されてもとんだ迷惑な話だ。仕方なくベストのポケットからぐしゃぐしゃになったメモ用紙を取り出し、顔に当てる。一瞬汚いとかインクが顔に写ったらとかが後から浮かんだが、構わず鼻をかむ。そんなことより早く顔を元通りにしたい。

 顔を上げて息を吸うと、幾分か空気の道が通るようになって、ほっとした。顔を下げて手の中のメモを開くと、鼻水がぐっしょりとついて、汚かった。今の自分もこんな感じだなあと呑気なことを考える。今日やらかしたこともこのメモみたいにもみくちゃになってくれ。

 よし、ホールに戻ろうと椅子から立ち、ドアに手をかける。ふと、ホールからバイトと社員の笑い声が聞こえてきて、そっと手を引っ込める。

 今入っていくのは、気まずい。先に着替えてから行こう。

インカムを外し、「研修中」の文字がでかでかと書かれた名札付きのベストを脱ぎ、ネクタイを外し、エプロンを外し、シャツの一番上のボタンを外し、リュックに入れて持ってきたオーバーサイズのスウェットを被る。武装が解けていくようなこの感覚はいつまでたっても慣れない。

まだ話し声が聞こえるので、再び椅子に座り、暫くぼーっとする。気がつくと賄いを貰いに行こうとして、もう30分以上経ってた。流石に行かないと。腰を上げると、丁度ドアが控えめに開く音がした。

荒々しくないってことは、あの怖いキッチンの先輩じゃないな。少し安心して、そのまま腰を下ろす。

 軽快に階段を上る音。恐らく後輩だろう。

「お疲れ様です」

「あっ、伊久間さん!お疲れ様です!」

当たった。挨拶されるまでこっちに気づかなかったようだ。

 名前は憶えていないが、店長にやけに気に入られている後輩。店長だけじゃない、社員や他のバイトの先輩にも可愛がられている。まあ確かに可愛い顔をしているし、愛嬌がある。皿を割るだとか、ドリンクを零すだとかのとんでもないミスどころか、注文ミスすら一度も見た事ない。客に呼ばれ、輝かんばかりの笑顔で小走りに動きまわると、耳くらいの高さで結んである髪の束がゆらゆらと揺れる。横髪はワックスか何かで固めているのか、毛の1本も落ちてこない。ネクタイも店のマネキンのように綺麗に結ばれており、同じ制服を着ているとは思えないくらい様になっている。胸元の「研修中」の文字は早々に消えていた。完全に追い抜かれている。本当に優秀な人だ。


「伊久間さん……今日は大変でしたね。」

「え、いや、まあ……はは。」

露骨に反応に困ってしまった。こうやって触れられたくないかも、と考えずに話題をポンポン投げかけるところを見ると、まったく真似できない性格である。本当は考えて言っているのかもしれないが。

「私だったら絶対辞めちゃいますよ」

「辞める、か。」

何度も辞めてやるとは思うし、ついさっきもそのことしか頭になかったが、いざ行動に移したことなかった。

 しまった、考えすぎて無言になってしまった。次言う言葉何も考えてなかった。小説や漫画ではここで

「どうかしました?」

と聞かれ、何でもないとはぐらかす展開が鉄板だが、一向に聞いてこない。何気なく読んでいてよく見る光景だなあとは薄々感じていたが、こういうところがリアリティに欠けているといえるのか。駄目だ今日は会話が上手く弾まない。

「じゃあお先に失礼しますね。お疲れ様です」

「あ、お疲れ様でーす……」

 いつの間にか帰る準備を済ませていたみたいだ。帰るのも先を越されてしまった。


時計を見ると、日付を超えようとしていた。流石に帰らないと、店長が不審がってやって来る。

「あれ、まだ誰かいるのか」

げ、噂をすれば店長。

「お疲れ様です。今から帰ります」

「おー伊久間か。外寒いから気をつけてな。今日もありがとう」

「ああ、はい。お先に失礼します」

 本当にこの人はつい先程まで「入って何か月経ってると思ってんの?」と煽りを入れてきた店長なのか。勤務時間内と外じゃあまるで人が変わっているみたいで気持ち悪い。

 説教してきた社員は見当たらなかった。きっと帰ったのであろう。入ったばかりの頃は優しかった社員だが、無能だとわかったのか会う度に嫌味を言われる。さては追い出す気だな。嫌味はしんどいが、辞めたら負けな気がするし、何より賄いが美味しい。賄い……?

あ。賄い貰い忘れた。


 外はすっかり暗く、寒くなっていた。毎回早く帰れば良かったと後悔する。

 店の前に停めていた自転車に立て付けの悪い鍵を差し、乗る。前方から吹き刺さる夜風が痛い。早く帰ってあったかい風呂に入りたい、そればかりが脳内をぐるぐると支配した。

 いつもは考え事をしながらひたすらペダルを回すこの時間が好きだったが、寒い冬は寒いとしか考えられないから嫌いだ。


 家までの20分間が、寒くなるとともに苦痛が増したが、無心で足を動かしていたらいつの間にか着いていた。

 アパートの駐輪場に自転車を停め、鍵をかける。中学校入学の時に買ってもらったママチャリをこっちに持ってきて、愛用している。いや、愛用というと語弊があるかもしれない。この町は坂が多い。だから電動自転車に買い替えるか、原付の免許を取るべきなのであろう。が、今の自転車で困ることといえば何回も倒されて鍵が刺さりにくいところと籠が斜めになっているところ、サドルの塗装が剥げているところぐらいで、それ以外は何不自由なく使えている。それに、一概に電動自転車や原付といっても、どのメーカーでどのくらいの値段のものが良いのかわからない。決して安くない買い物だし、失敗したくない。買い替えか原付かを決めるのはもう少し調べた上で、それもこの自転車が壊れてからでいいや。そういった結論に落ち着いた。

いやそれとも、多少の愛着は籠っているからやはり愛用といえるのだろうか。


「ただいま」

2年前とは違い、返ってくる声がない。小学生の頃、親に帰ってきたらまずただいまと言いなさいと躾けられてきたのが抜けていない。まあ防犯になるし、と一人暮らしを始めた今でも続いている。それでもたまに虚しくなる。

 靴を脱いでリュックと防寒着を体から離すと、一気に肩の荷が下りた。

 手を洗う前に風呂の蛇口を捻り、そこで手洗いうがいをしてからお湯を溜める。最近習得した技だ。いつも凍てついた手をお湯で温めたくて赤い蛇口を捻るが、最初に出てきたのは冷たい水。水道代が勿体ないので水で洗うも、お湯に辿り着く前にもう洗い終わってしまう。しかしこの方法を思いついてから、お湯で手を洗うことに罪悪感を覚えなくなった。衛生面は?という声が聞こえてきそうだが、足の裏の方がよっぽど汚いから問題ない。

 そういえば帰ってすぐ手を洗う習慣も、親に口酸っぱく怒られた名残があるからだなあ。一般常識として学校でも言われていたが、一番の影響は親だった。親元を離れて初めて親のありがたみを実感する。


 湯船の栓を閉め、お湯が溜まるのを待つ。床に座り込んで、携帯を触る。本当は大学の課題をしなければならないが、バイト頑張ったし10分ぐらい疲れた体を癒す時間を取っても許されるだろう。許されてほしい。

 吸い寄せられるようにSNSアプリを開く。フォローしている人のキラキラした私生活が目に飛び込んできて、げんなりする。こっちが日曜日に夜まで労働に勤しんでいる間、同級生は飲み会でコールに勤しんでいる。同級生同士が店員と客の関係になりうるなんて考えてもみなかった。彼らとの間にはアクリル板より分厚い壁が立っているみたいだ。

 バイトのことを考えたら頭が痛くなってきたので、SNSを閉じて動画アプリを開く。最近どのSNSや動画サイトでも、1分くらいの動画がスワイプ1つで次々と再生される。

「あなたへのおすすめ」として、ユーザーが興味を持ちそうなジャンルの動画をAIが自動的に選別しているらしい。これが無限に時間を削られる。何の生産性もないこの時間をどうにかしなければならないと思い、制限時間を設定したり、アプリをアンインストールしたりするが、制限時間は無視できるし、アプリは入れ直せるからいまいち効果は感じない。頭では拒否しているが、体が動きを変えることを拒み、動画を見続けることを望んでいる。


 最近思うことの1つに、慣性の法則がある。外から力を加えられていないとき、あるいは力がつり合っているとき、物体は静止または等速直線運動をし続けるという法則。この世には慣性の法則がはたらいている。中学だか高校だか理科の授業で習ったときはピンと来なかったが、日常生活の至るところで慣性の法則を見出すことが増えた。静止している物体は止まり続けるし、動いている物体はいつまでも動き続けようとする。

だから慣性の法則に従うことは、自然現象として当たり前のことだ。現状維持こそが最善策。波風立てず平和に過ごすことが1番賢い。富士山が美しいのも、法隆寺が世界遺産なのも、その姿を何百年も保っていられているからである。慣性の法則に従うことの何がいけないんだ。

まあそんなことを言っても、動かなければならない場面があることはわかっている。所詮慣性の法則を持ち出して自分の行いを正当化しているに過ぎないことも、わかっている。


 そろそろお湯が溜まってきた頃だろうか。お湯を止めに行かなければならない。しかし、携帯を置くこと、立ち上がること、移動することの二重タスクが課せられていると思うと、余計体が重くなる。いくら大好きだとはいえ、面倒臭いことには変わりない。そういえばここにも慣性の法則がはたらいている。しかも二重タスクを終えた後も、風呂に入るまでいくつものタスクをこなさなければならない。AIはおすすめ動画じゃなくて、人間を風呂に入れるシステムを覚えて実行してもらった方が需要あるに違いない。誰か開発してくれ偉い人。


 何とか自分を鼓舞して風呂場に見に行くと、溢れる寸前までお湯が溜まっていた。水道代を無駄にしてしまったことへの少しの後悔と、ギリギリで気づけたこと、無理なく全身浴ができることへの少しの嬉しさ。

ぬるいお湯だと時間経過と体温ですぐ冷えてしまうので、熱々を入れている。だからといってすぐに熱々の湯船に入る人はリアクション芸人しかいない。

歯を磨きながら、パジャマの準備をする。携帯をどこに置いたか忘れた。昨年まで携帯を密閉袋に入れて風呂に持ち込んでいたが、密閉しきれておらず水没してしまったのがトラウマでやめた。服を脱ぐ覚悟を決める。

風呂場のドアを開けると、閉じ込められていた湯気を全身に浴びた。その様子は、温泉を超えてサウナか玉手箱のようだった。

 かけ湯でシャワー分を節約する。時間を置いたとはいえ、冷え切った体には痛いくらい十分な熱湯だった。だがそれも、少しずつ何度かにわたってかけていると慣れた。かけ湯で頭を洗い、体を洗う。やっとの思いで風呂に浸かる頃には、めいっぱいの熱湯はすっかり丁度いい温度だった。

 じんわりと湯船のぬくもりを吸収するこの感覚が、たまらなく気持ちいい。溜まりに溜まった課題も、店長へのストレスも、頭痛も、肩こりも、体内の毒素がお湯に溶け出していくようだった。これだから湯船に浸かるのは辞められない。

 時間が経っているので、湯冷めするのも早い。気を抜くと目を瞑りそうになる。そろそろ「アイツ」がやってくる頃だ。


 体長60cmくらい、全身紫色だがお腹だけ白い、猫のような耳と目、悪魔の尻尾を持つ「ソイツ」は、現実世界にいるには明らかに異質だった。初めて会ったとき、アニメから飛び出してきたような見た目をしていたものだから、暫くは夢を見ているのだと信じて疑わなかった。

あたたかい湯船に耐えきれず目を瞑ると、どこからか声が聞こえてきた。カカと名乗ったそいつはゲラで、何か言う度にカカカカと笑った。名前が先か笑い声が先か。鶏と卵みたいだなって言ったら、それは笑ってくれなかった。

 カカとの話は漫才みたいで飽きなかった。最初は波長が合わなかったが、毎日会うもんだからお互いがお互いのことをわかってくる。今ではカカの考えていることが手に取ってわかるくらいだ。漫才が「もうええわ!」で終わるように、いつもカカに無理矢理湯船から追い出される。風呂から出た後、いつもカカはいなくなっている。風呂でしか会えないなんて、不思議な化け物もいるものだが、化け物の時点であまり気にならなかった。

 カカと出会ってから、生活が少しずつ変わっていった。風呂場が寝る場所からカカと話す場所に変わった。風呂で寝ることがなくなったから、布団で寝るようになった。カカと話した次の日は、テンションの高い漫才状態のまま朝を迎えるから、人と話すことが楽しくなった。前よりも随分社交的になった気がする。

が、今日は遅い。いつもは寝そうになったらコテコテの関西弁で「何しとんねーーーーーん!」とすっ飛んで叩き起しにくるあいつが、今日は来ない。眠気が足りないからだろうか。そんなはずはない、今眠くて眠くて仕方ないんだ。


 そうこうしている内にも風呂の湯は冷たくなっていき、同時に体温がゆっくり奪われているのがわかる。

明日何限からだっけ。月曜日だから全部オンライン授業の日か。ああでもバイトが11時から入っているんだった。いつまでもここにはいられない。こうなったらカカの力を借りずに風呂に出るしかない。風呂から出ろ。めんどくさい。風呂から出ろ。うるさいな。風呂から出ろ!わかってるよ!あーーもうめんどくさい!

勢いで立ち上がることに成功。だが空気は想像以上に冷たくなっていた。再び湯船に戻り体制を整える。


 そういえば。昨日は風呂に入れなかったんだった。バイトが終わってから今日締切の課題を終わらせようと必死になっていた。夜中の2時過ぎまで書いてそのまま横になり、寝落ちした。起きたら8時半で、準備をしていたらいつの間にかバイトに行く時間で、冬だから大丈夫だろうとそのまま出勤した。道理で今日は全身が痒かったし、上手く人と話せないと思ったわけだ。

 1日風呂に入らなかっただけで、世界が違って見えた。勿論悪い意味で。思い返せば接客中、肩や料理にフケ落ちてないかなだとか、今体臭くないかなだとか、風呂に入っていないことへの負い目を感じすぎるあまり、他のことへ頭が回っていなかった。だから今日とんでもないミスをしたのかもしれない。

 それにしても、カカはこのまま現れないのだろうか。風呂に入らなくなった伊久間千昌を見捨て、他の風呂から出られない人のもとへ行ったのだろうか。だとしたらあまりにも呆気なさすぎる。結局カカは何者かわからなかった。

そもそもカカ自体本当に存在していたのか?確かにカカはアニメから飛び出してきたような見た目をしていたが、要所要所でどこか既視感があった。今まで自分が見てきたアニメのキャラクターの特徴を少しずつ足して、無意識に創作していたのではないだろうか。典型的な関西弁も、自分が関西のお笑いを見るのが好きだったからではないだろうか。

 何のために?

 わからない。考えたくもない。所詮幻覚に過ぎなかったのだ。幻覚に頼りきっていた自分が酷く情けなく、滑稽に思えた。

 またカカのいない日常に逆戻り、か。



 こんなところでいいだろうか。締切まであと10分を切った。まだ大丈夫、頑張れば間に合うと先延ばしにし続けたら取り返しのつかないところまで来てしまった。いい加減ギリギリまで溜め込む癖をどうにかしなければならない。

これを書き終えて、私は風呂に入る。

人は毎日風呂と戦っている。昨日は不戦敗だったから、今日は風呂から出られるように頑張ろう。



次回、

「風呂から出られない人が風呂から出る話」




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