見出し画像

癒しと回復の道を歩むのって楽しいよ

 おひさしぶりです。さりままです。
 ずいぶん投稿が空いてしまいました。バカに暑い夏もようやく去り、季節も変わりつつありますね。
 「自分のこと徒然―音楽篇ー」、けっこう内容がヘビーになってきて、筆も重くなっちゃってます。ゆっくり時間かけて、ぼちぼち続けていこうとは思いつつ。
 今回は少し趣向を変えてーでもテーマはけっこう共通してるー最近経験した、ホットな体験を綴ってみますね。

 SOZOミニストリーを体験してきた

 9月半ばの週末2日間、茅ヶ崎の教会を会場に開かれた、SOZOミニストリーのセミナーに行ってきた。「ソーゾーってなんやねん?」と思う方も多いだろうから、Onfire Japanのサイト
https://onfire.jp/%E3%81%8A%E5%95%8F%E5%90%88%E3%81%9B/%E8%A7%A3%E6%94%BE/
から引用、要約して、少し説明しておく。

 「SOZOとはギリシャ語で救い、癒し、解放を意味し、新約聖書の中に110回明記されています。SOZOミニストリーは、イエスが十字架の上で勝ち取って下さった完全な生き方をみつけ、それに歩むよう人々を助ける働きです。感情的な問題、人間関係の行き詰まり、不健康な行動パターンが止められない等の問題は、神とあなたとの個人的な関係を邪魔し、あなたを束縛する根がそこに存在するからです。自由と解放の人生を妨げるものは何なのか、ミニストリーチームが一緒に祈りながら、あなたがその根を見つけ、引き抜くことができるようお手伝いします。」

「このSOZOミニストリーを通して、私たちの内側にある問題の根(敵であるサタンが持ち込み、植え付けた嘘)を見つけ出し、そこに光(神にある真理)を照らすと、その根が抜き取られ、過去の傷は癒され、心の中に自由と解放が訪れます。」

「そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(新約聖書 ヨハネ 8章32節)

 なんか、いい感じでしょ? どこか生きづらいと感じてる人、なんだか自分の生き方に違和感やしんどさを感じてる人、ぜひこのSOZOミニストリーに関心を向けてみて!

 この Onfire Japanでは、ボランタリーな働きとして、このSOZOミニストリーを日常的に受け付けていて、申し込んだら対応してくれているそう。訓練を受けた2人のケアワーカーが、チームでセッションをしてくれるんだって。その人たち自身、SOZOのセッションを受け、その内容とプロセスを受ける側、助ける側、両方の立場から理解し、経験している人たちだそうなので、安心。実は私、今回のセミナーを受講、経験したあと、早速このセッションに申し込んだ。ちょっとドキドキしながら楽しみにしてる。

 さて、今回私が参加したセミナーは、「出張型短期セミナー」みたいな形で、エッセンスを伝授してもらい、即、実践してみた感じ。ゴスペルエッセンスライフ  https://www.gelgoodnews.com/ の相馬伸子さんが主催するセミナーとして、オンファイヤのリンスコット綾さんを招く形で開かれた。 
 SOZOミニストリーは、いわゆるカウンセリングではないけど、父なる神さま、イエス様、聖霊様との関わりを通して、 私たち一人一人に天の神さまが持っておられる目的を知ることのできる、素晴らしい体験となることが期待できるみたい!

 今回の私の経験

 さてさて、それでは私の今回の経験に話題を進めますが。

 今回のこのセミナーが、湘南茅ヶ崎で開催されたこと、そこに自分が「行きたい」と思ったこと自体が、そもそも神さまの導き、主の時だったんだと思う。また、ホテルを平塚に取ったのも、なんとなく私の心に働きかける主に従った結果だったんだろうな、と後になるほどつくづく思う。

 セミナーには、子どもみたいなわくわくした気持ちで臨むことができた。感謝と喜びの賛美で始まり、早速テーマに入っていく。
 セッション1は、おもに全体の概要の講義。講師のリンスコット綾さんの関西ノリでペース良く進む。以前に受けたエリヤハウスミニストリーの考え方や概念と、多くが重なっているし、すでにSOZOミニストリーのテキストも購入して目を通してもいたので、内容はよく理解、把握できた。

 たとえば「私には赦せない人がいるだろうか」「なぜ自分は、ある状況になると、いつも同じような反応をしてしまうのか」などの質問から、聖霊なる神さまに導きを求める。そして自分の中に植え込まれた「嘘」を見つけ、それを福音の真理と入れ替える。ごく粗く、大ざっぱにまとめちゃうとそんなトピック。

 夜のセッション2では、早速実践に入る。2人1組になって、きょう学んだことを聖霊により頼んで聴きながら、自分の中にある苦い根を示してもらう。そして浮上してきた出来事や人物について、更に聖霊に聴いていく。

 15年前のできごとからくるトラウマ?

 実は、私はこのセミナーに来る数日前から、15年前まで12年間、夫が牧会していた平塚の教会の、日曜日の礼拝集会に行くかどうか、思い巡らし、主に尋ねていた。茅ヶ崎と平塚は、ひと駅隣りで、私の宿は平塚の駅前なのだ。

 というのは、私たち家族には、2005年春、思いもかけない事情とタイミングで、12年間仕えた教会を去ることになるという、いわば「黒歴史」があったからだ。
 教会の長老格の数人の人々が、我が家が2001年秋から始めていたホームスクーリングを、どうしても理解、受容できず、その結果、批判や脅しで夫をコントロールしてホームスクーリングをやめさせようとした、ということがあったのだ。そして、その人たちとしては意図的ではなかったものの、結果的には、その人たちに追い出されるようにして、夫は辞任しか道がない状態で教会を後にした。「牧師の代わりはいても、うちの子たちの父親の代わりはいない」と言って・・。

 私は、この15年の間に、神さまから多くの取り扱いを受け、そのプロセスで、その人たちのしたことを赦し、彼らを裁いていたことを認めて悔い改め、彼らを祝福することまで導かれてやってきていた。だから、裁きや苦味はほとんど問題ないほどに取り去られている、とは思っていたのだ。

 けれど直前になって、「さあ、日曜日の午前中、ほんとにどうしよう・・?」と考えると、なんだかそわそわしてしまう。そこで、Hさんに連絡を取ってみた。私たちが平塚を出た後、入れ替わるようなタイミングで平塚の教会につながった人だ。不思議な導きで親しくなった。

 その彼女とチャットするなかで、なんだか正体のわからない恐れがきたのだが、彼女が、とても適切で、安心できるサジェスチョンをくれたので、「最終的な決断は初日のセミナー後でいい」となり、リラックスしてセミナーに臨めた。同じその金曜日、2人の信仰の友にも状況をシェアして祈ってもらっていた。

 初日、夜のセッションで起きたこと

 さて、夜のセッション2の内容に戻ろう。2人1組の相互ミニストリーの時間、最初に相手の人のことを取り扱った後、今度は私自身のことにフォーカスした。

 上に書いたような事情で、私には、平塚の教会に、会いたいと思う人たちと、会うのが心痛いと感じる人たちがいる。祈るなかで、主は「会いたい人たち」の代表的な人と、会うのがしんどいと感じる人たちの代表の人を示された。

 会いたいと思う人たちを代表するのは、私たちの後を引き継いで牧会している夫婦の、奥さんであるNだ。当時、Nと私とは本当に親密で、信頼し合える関係だった。それだけに、引き離された痛みも大きかった。祈るそのリアルタイムで示されたのは、平塚を離れた後、何度かNと個人的に会った時、彼女に聞かせるべきではなかった話をしてしまった場面だった。当時、私自身、まだ混乱と痛みの中にあったため、彼女に、かつて私たちに辛く当たった、その教会の長老格の人々について、愚痴のような、陰口のようなことをけっこう話してしまったのだ。

 ミニストリーを受けるなかで、前日の金曜日、来たる日曜日のことを考えた時に、「Nにどんな顔をしていいかわからない。やっぱりあの教会には行けない」と感じて、恐れを覚えたことを思い起こした。聖霊様は、私が「自分の未熟さゆえに、愛する妹のようなNに、ただでも突然の環境の変化で、大変な思いをしているところに、更に負わせるべきでない負担を増し加えてしまった」という罪責感を覚え、「情けない、ダメな自分」と自分を責めて、自分自身を赦せてないことに気づかせてくださった。導かれるままに、この「自分を赦せない」という罪を告白し、悔い改めたら、とても心が軽くなった。そして、敵に、「おまえはダメなやつ。」「もう彼女とは二度と関係が回復することなんて無理だよ。」「おまえなんて、とっくに見限られているさ。」と欺かれ、その思いで辛くなる、というふうに思いが縛られていたことがわかった。

 もうひとつは、「会うのが心痛い」と感じる人たちの代表選手のような人。私たち家族を結果的に追い出すことになった動きにおいて、ボス的な立場だった男性のことだった。
 平塚を離れた後、ずいぶん長い間、その人のことは特に、本当に怖いと思っていたし、裁いていたし、恨んでいたし、憎んでいた。一般社会で、であっても、私のそれらの感情は、おそらく「それは当然だね」と評価してもらえるだろう。それだけに、苦しんだレベルも期間も、深くて長かった。この15年間の中でいくつかのポイントがあって、その度に気づかされること、導かれることがあり、赦し、悔い改め、祝福を宣言してきた。幸い、日常生活では、そのことを考える必要も機会もないし、たまに何かのきっかけで思い出すことがあっても、ただ祝福を祈るだけで、その度ごとに心は自由になってきたのは確かなことだ。

 なのに!
 にもかかわらず、だ。
 なんとも言えない苦味と共に、彼の顔が思い浮かぶ。「主よ、何がまだ足りないんですか、どうしたら自由になれますか」と尋ねる思いで祈るうちに、示されたのはこうだ。

 「私たち家族」に対して彼がしたことについては、赦したし、裁いたことを悔い改めたし、そこに「敵」が働いたこともよくわかって、それに対してイエスのみ名と血潮を宣言した。彼を祝福することもしてきた。ところが、「教会」を「牛耳っている」(と私が思っている)その男性が、(おそらく)正式に悔い改めることもないまま、いまだにその教会で影響力を持ち、大きな顔をして(と私が感じるように)生き延びていることに対して、私の中にまだ、怒り、苦味、「フェアじゃない」という裁きと不満があったことに気づかされたのだ。ここに神さまの光が当てられた。なんと私は、愛する主、完全な裁き主である神さまに、この点において、密かに不服を申し立て続けていたようだ。
 このことについても導かれるままに祈り、悔い改めた。「裁き主はあなただけで十分、あなたのなさることに私が文句を言うのは、もうおしまいにします」と手放した。

 自由が来た!フワッと軽くなる解放を感じた。
 同時に、「この日曜、その教会に行ける、行っていい、行くべきだ」とわかった。恐れも恥も、裁きもなく、主がしてくださる「何か」を楽しみに行くことができると思った。

 日曜日の感謝、喜び、勝利!

 翌日曜日、Hさんと駅前のカフェで落ち合い、一緒にモーニングを食べてから、いよいよその教会に向かった。バスの車窓から見る景色が、いちいち懐かしく、少し眩しい。

 コロナに対する「3密を避ける対策」で、今、日曜日午前の集会は、9時からと11時からの2回に分け、時間も短縮してやっていると言う。高齢のメンバーの多くは9時からの集まりに参加し、比較的若い人たちは11時からの方に出席することが多いそうな。私たちは11時からの第2礼拝に出席することにしたので、結果的に「あまり会いたくはないな」と思う人たちには誰とも会うことがなかった。

 弟のように思って同じ時期を共に過ごし、私たち夫婦を慕ってくれたかつての青年は、今や立派な4人の父親にして、牧師さんになっていた。

 そして。その妻であるNとも、とても自然で、心が熱くなる再会を果たし、ハグし、昔話や近況報告に花を咲かせることができた。他の、会いたいと思っていたかつての仲間たちとも、ごく自然に、楽しく談笑することができ、15年前にはまだこの世に存在していなかった、Nたちの長男、長女とは、ピアノ、ギター、カホンで一緒に賛美した。まさに癒しと解放のひとときだったと思う。

 集会後には、Hさんともうひとりの人とランチした。この女性は、以前、同世代の子育てママ同士というつながりで、一緒に聖書を学ぶグループのメンバーだった人。その学びがきっかけとなって信仰を告白し、洗礼を受けた人だ。彼女も私との再会をとても喜んでくれて、目を輝かせて近況を話してくれた。時の経過と共に、彼女の霊的な成長を垣間見ることができて、とてもうれしかった。「パウロが植え、アポロが水を注いだけど、成長させてくださるのは神、って、これだな」と思い、神さまをたたえた。

 次なる課題!

 感謝と喜びにあふれて平塚を後にし、茅ヶ崎のセミナー会場に戻ると、もう次は最終セッションだ。このセッションでは、「地上における近しい関係は、三位一体の神との関係に大きく影響する」というのがテーマだった。地上の父親のイメージは天の父のイメージに、地上の母親のイメージは聖霊さまのイメージに、そして地上の兄弟姉妹や友人関係に持つイメージはイエス様のイメージに重なると言う。この講義をもとに、「自分の家族、身近な人たちとの関係が、神様との関係に影響を与えているでしょうか」と主に問いかけ、思い巡らす、ということをやった。

 この時、私の中で浮上したのは、1歳8か月上の兄のことだった。最初、わりと意外だった。でもいざ浮かび上がってみると、なんとなく「今取り組むべく、主が思い起こさせてくれた関係なんだろうな」と感じた。
 これについては、この兄との関係が、イエスさまとの関係に影響を与えているのかどうか、さっぱりわからなかったし、今もまだわからない。ただ、ここ10年くらいのスパンで、だろうか、「私はどうやら、身内や、ごく身近な男性たちと、良い関係を築くのが上手ではないみたい」ということには気づき始めている。それが何なのか、どこから来るのかについては、全然ピンと来ないまま過ごしてきた。それがこの時初めて「ん?もしかして・・、お兄ちゃん?」とだけは思ったのだ。
 幼いころ、私は兄にあこがれて、何でも兄と一緒がよかった。何をするにもくっついて回り、どこへでも一緒に行きたがっていたらしい。けれど、中高生のころからは、とてもさめた、疎遠な関係になっていったように思う。兄との関係においては、良い思い出も、ネガティブな思い出も、どちらもすぐには出てこない。「なんか変だな、確かに。なんかありそうだな。」
 そう思ったところまでで、今回のセッションは終わりとなった。

 癒しと解放の旅はまだまだ続く

 今回受けたSOZOセミナーは、一勝一引き分けー1つは大勝利、もうひとつは継続審議(?)― という結果だった。過去の傷の痛みから大いに解放され、自由にされた。新しいことが始まる予感がする。一方、新たに見せられた、この「兄の扉」は、けっこう古びていて重く、1人では開けられそうにない。中から何が出てくるのかも、ちょっと怖い気がして、助けが必要だと思った。それで、帰って来て早々、オンラインでも受けられるOnfireのSOZOミニストリーのセッションを申し込んだわけだ。間もなく、そのセッションを受ける日が近づいている。1回では済まないかもしれないけど、必ず良い結果が生まれることを神さまに期待し、信頼して、祈りながらその日を待っているところだ。

*今回のトップ画像には、湘南のイメージでsumireさん https://note.com/mydaydream のお写真をお借りしました。ありがとう!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?