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「お兄ちゃん」とまた呼べるようになった話

 昨年9月の終わりに、SOZOミニストリーのオンラインセッションを受けた。SOZOミニストリーというのは、兵庫県西ノ宮に拠点のある「オンファイヤジャパン」というクリスチャンミニストリーグループの働きのひとつで、綾リンスコットさんが代表を務めている。コロナのおかげ、と言っていいだろう、今はZOOMで自宅にいながらセッションを受けることができる。しかも1回のセッションのために、3時間を確保してくれていて、至れりつくせりだった。
 今回は、このセッションで経験したことを読んでくださる方たちにシェアして、何かの励ましになればと願う。    

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  半世紀以上閉ざされていたフタが開いたきっかけ

 実はこのオンラインセッションを受ける前、私は、9月中旬の週末の土日、茅ヶ崎で開催されたSOZOミニストリーのセミナーに参加していた。
 初日にも神さまからの大きな取り扱いと勝利があったのだが、2日目の日曜日、最終セッションを通して、もうひとつの向き合うべき、自分の「心の闇」と呼べる領域が示された。何十年も心の奥底で閉じられていたとびらが、神様の手によってそっと開かれたのだ。

 そのセッションでのこと。
 講師の綾さんによる40分ほどの講義のあと、彼女から「天のお父さんと地上のお父さん、聖霊様と地上のお母さん、そしてイエス様と地上の兄弟姉妹、あるいは親しい友人との関係が、お互いに影響していることがよくあります。家族や身近な人びととの関係で、主がきょう癒やしたい、気づきを与えたい、取り扱いたいと願ってくださっているのは誰との関係なのか、主に聴いてみましょう」というお題が出された。
 それからしばらくの間、主に訊いた。そして、なぜそう思ったのか正確には覚えていないし、うまく説明もできないが、思い出したことがあった。
 「ん? お兄ちゃん?」

 というのは、ここ数年前から「私ってなんだか、身内や身近な男性たちと、良い、健全な関係を築くのが上手くないよなあ。これってなぜなんだろう。」という疑問を持っていたことに思い至ったのだ。それが何なのか、どこから来るのかについては、全然ピンと来ないまま過ごしてきた。でもその時、思い巡らしながら主に訊くなかで浮上してきたのは、1歳8か月上の兄のことだった。最初はわりと意外だった。でもいざ浮かび上がってみると「これが今取り組むようにと、主が思い起こさせてくれた関係らしいな」とは直感した。
 けれど、自分としては、イエスさまとの関係が遠い、とかリラックスできない、とかいう感覚はない。兄との関係からくる「整理できていない傷や歪み」が、自分とイエスさまとの関係に何か良くない影響をもたらしているとは考えにくい、というのが正直な気持ちだった。基本的にイエスさまとは「すごく仲良し」だと自負しているので。でもなあ・・。

 幼いころ、私は兄にあこがれて、何でも兄と一緒がよかったそうだ。何をするにもくっついて回り、どこへでも一緒に行きたがったと聞いている。確かに、歳が近かったせいだろう、近所の子や従兄弟たちと遊ぶ時、2人はたいていセットだった。基本的に兄のことをとても好きで、慕っていたと考えるのが自然だろう。

 けれど、中高生のころからは、とてもさめた、疎遠な関係になっていったように思う。それぞれ別の世界を持っていて、お互いに関心もないし、干渉もしない、といった関わり。遠い存在、という感じ。

 だから彼との関係においては、良い思い出も、ネガティブな思い出も、どちらもすぐには出てこない。
「ふむ。確かに、なんかありそうだな。」
そう思ったところまでで、そのセッションは終わりとなり、課題を持ち帰る形で、茅ヶ崎の地を後にした。

  あれこれ思い巡らした末、当日を迎える

 家に帰ってからの1,2週間、意識的にこのことについて思い巡らし、浮かんできた過去の思い出などを書き留めるようにしていた。そのなかで「お兄ちゃんってどんな人だった?」と考える時、「何を考えているかわからない変人」とか「お金が大好きでケチな人間」「兄らしくなくて、頼りにならない人」とか、ネガティブなイメージしか出てこない自分がいることに気づかされたのだ。普段はあまり考えることもなかったが、どうもこの「兄に対して持っているイメージ」は、「男性全般」へのイメージとして何か反映されているんじゃないかな、ということにも気づき始めていた。
 確かに自分の中に、どこか男性を見下すところや、男性という存在に期待しないことで自分を守るところ、あるいは男性に対して「自分だってできる」と対抗するようなところがある。

 そんな気づきを携えて、いよいよオンラインセッションの日を迎えた。

 初め15分ほど、アイスブレーク的な雑談をしてから本題に入る。促されるままに、上に書いたようなことを話していった。

 話すなかで気づいていったことは、自分がいかに無意識のうちに人(この場合は兄)を自分のものさしで評価し、査定し、勝手にジャッジを下してきたか、ということだった。

 おそらく、私の元々の「感情」「気持ち」の部分は、「お兄ちゃん、大好き」であったり「お兄ちゃんみたいになりたい」であったり「お兄ちゃんに優しく守られたい」だったりする、子どもらしい、妹として素直な、自然なものだったと思う。ところが、兄は必ずしも私が期待したような対応をしてくれるわけではなかった。当たり前だろう。それに私はがっかりし、悲しみ、結果、兄に対して恨むような感情を抱いた。そしてジャッジしたのだろう。人は自分の心を守るために、相手を低く見定めることで心のバランスを取るんだなあ、と気づかされる。

 セッションにおいて、これらのことに気づかされ、導かれて兄を赦すというお祈りをした。
「天のお父さん、お兄ちゃんが、私の願うような兄らしい頼りがいのあるお兄ちゃん、面倒見のいいお兄ちゃんでなかったことをイエス様のお名前によって赦します。」

 聖書の中に「人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。」(ガラテヤ6:7)という言葉がある。これを「種まきの法則」と呼んで、私たちの内面で起こることに当てはめることができる。
 私の場合、「お兄ちゃんは、優しくないし頼りないし、何を考えているのかわからないから、お兄ちゃん失格」という具合に、自分の期待というものを基準に兄を断罪し、裁く種を蒔いたと言える。
 その種はたった一粒だったかもしれない。でも大人になる頃には、この種は何十倍、何百倍もの悪い実を結ぶことになる。それが、私が男性一般に対して、「どこか信用できない」と感じていたり、「あなたより私のほうが優れている」と張り合いたくなったり、何かの拍子に敵対的な態度に出てしまうという形で表れていたのだと認めることができた。

 実は私がこのように相手から傷を受け、その結果裁いたのは、兄にだけでなく、父に対してでもあった。それは、今回のセッションでは主たるフォーカスではなく、以前に別のミニストリーで取り扱ってもらってかなり解放されていたのだが、もう一度向き合うチャンスを与えられた。
 夜中に酔っぱらって帰宅しては、管を蒔いたり母を罵ったりした父を恐れ、布団にもぐっていた幼い私。改めて、イエス様の名前で、そんな父を赦し、裁いていたことを悔い改めた。兄についても、「頼りない、期待に沿ってくれない兄」をただ赦すだけでなく、自分の価値観で勝手に兄を裁いていたことをイエスの名で悔い改めた。

 残念ながら、私は、人生で最初に出会った2人の男性たち、つまり父と兄との健全な関係を築くことができなかったために、「身近な男性と良い関係を結ぶことが難しい」という悪い実を結んでしまっていたようだ。

 更に、このような傷や歪みのある私の「思い」という領域に、知らずのうちに敵であるサタンが植え付けていった「嘘」もあったことが示された。

 ・男性は頼りにならないから、自分ががんばらないといけない
 ・男性は理解不能なので、安心して信用することはできない
 ・男性に負けないように、自分は同等の力を蓄えなければならない

 だいたいこんなところだっただろうか。ひとつひとつをピックアップして、イエスの名によってこれらの「嘘」を打ち崩し、心という土壌に根を張ったその根っこを引き抜いた。少しずつ、心が軽くなり、解放されていくのを感じることができた。

 また後日には、引き抜いた根っこの代わりに、男性たちが、女性の「かしら」として神さまにデザインされ、形作られたことを認め、祝福するという新しい「苗」を植えることもした。

 他にもいくつかのトピックで、聖書の言葉に基づくカウンセリング的なセッションを受け、「私は生まれるはるか前から、父なる神に大切にデザインされ、守られ育まれ、愛されてきた存在だ」ということをもう一度新しく受け取ることもできた。

  その後の変化など

 さて、それからもう3か月以上が経過した。最初に気づいた変化は、日々、その日に与えられた聖書のみ言葉を通して、神さまとおしゃべりする時間においてだ。神さまと話し合った会話をそのままジャーナルに書き留めるのだが、最初に呼びかける名前の頻度が変わったのだ。
 というのは、神さまは三位一体の方なので、日によって呼びかける相手が 「お父さん」だったり「イエスさま」だったり、「聖霊様」だったりする。このセッションを受けるまでは「お父さん」と呼びかけ、お父さんと会話することがとても多かったのだが、気がつくと「イエスさま」に呼びかけ、イエスさまと話す割合が増えてきた。今までもイエスさまのことは大好きで、決して疎遠だったり、愛されている確信がなかったりしたわけではない。でも、この朝の会話の時間や、生活の中でふと呼びかける相手としての神様の名前は、「お父さん」が多かった。それが「イエスさま」と呼ぶことが、以前よりも自然で、頻繁になったように思う。

 もう一つの変化は、夫に対する自分の心の態度。今まで、彼が自分の願うように反応をしてくれないような時に、対抗的に議論をしたり、上から目線でジャッジするような態度を取ったりしてしまうことが多かった。しかしあれ以来、これを一切しなくなったとは言えないものの、少しずつではあるが減ってきているように思う。「認めてほしい」「わかってほしい」という、何か焦燥感を伴うような願望が薄れてきているように感じるのだ。そして、彼の善意、彼の好意を以前よりもっと自然に、素直に受け取れるようになってきているように思う。

  10年以上ぶりに兄と再会する!

 そして、一番明確で、はっきりとした変化は、兄その人との関係!
 昨年末、10年以上ぶりに、実家にて兄弟姉妹5人が集まる機会があった(そう、私には兄の他に妹2人と弟がいる)。我が家の歴史にもいろいろなことがあり、父が2009年に天に召されて以来、全員が一堂に会するということはなかったのだが、必要があって集まることになったのだ。
 普段からLINEのきょうだいグループでやりとりしてはいるのだが、そのやりとりの中でも、自分が兄のレスポンスに対して、過敏な反応をしていることに気づいていた。なので、実際に会うことにも多少躊躇があった。

 けれど実は、変化は会う前から微妙に始まっていた。というのは、―私はおそらく学生時代くらいから、兄のことを名前に君づけで呼んでいたのだが―いつの間にか、LINEでのやりとりで、幼いころに呼んでいたように「お兄ちゃん」と呼ぶようになっていたのだ。

 そして実際に会った時にも、変な緊張や恐れがなく、リラックスした自然体で楽しく時間を過ごした。年老いた実家の母の今後のことや、交通事故の後遺症のため、普通の生活ができなくなっている弟の将来のことなどをきょうだいみんなで額を寄せ合い、話し合えた時間はとても有意義で心温まる時間だった。そして、兄の見識や知識、知恵に対して、素直にリスペクトし、頼る思いを持てる自分にも気づけた。

  新しい旅の始まり

この新しい旅路は、今も続いている。50年以上にわたって慣れ親しんでしまった古い「考え方のクセ」は一朝一夕には変わり切らない。でも、確かに古い考え方の根っこはもうないので、同じパターンに陥ってしまった時も「これは古いクセ」と識別して、その思考パターンを離れることがたやすくなった。

 「まだまだ変われるよ、私!」と自分を鼓舞しながら、この旅を続けていこうと思う。

(今回の見出し画像にはあーるさんの、ほのぼのしたイラストをお借りしました。ありがとうございます!)


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