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ヒッピー衰退史 ―終戦・暴力・商業主義―

前回はヒッピーの隆盛期について、彼らが何をして社会にどんな影響を与えたのか書いた。しかし栄枯盛衰とはよく言ったもので、ヒッピームーブメントはやがて衰退に向かう。今回はその過程について述べる。

ヒッピーたちが起こしたベトナム反戦運動は、1967年をピークとして国内外から政府への多大なる批判を浴びせた。それから当時の大統領ジョンソンは翌68年に北爆停止を宣言、北ベトナムとの交渉も始めた。1969年には戦争からの「名誉ある撤退」を掲げたニクソンが大統領に就任し、他国への軍事介入を抑制する「ニクソン=ドクトリン」を発表、ベトナムで亡くなる米兵は1968年から1969年にかけて半分以下となった。

するとベトナムに焦点を当てた反戦運動は減り、「週末ヒッピー」も姿を消した。担い手がいなくなることは、言わずもがなムーブメント衰退の一因であった。

しかし、ベトナム戦争はまだ終わったわけではない。1970年、ニクソンはパリ講和会談をアメリカ優勢で迎えるために一転して北爆を再開、カンボジアへの侵攻とラオスへの空爆も始めた。これに抗議した大学生2名は州兵と警官に射殺され、一刻も早い終戦を望む反戦運動は続く。アメリカがベトナム和平協定に調印したのは1973年、サイゴンが陥落して南ベトナム政権が崩壊し、終戦を迎えたのは1975年である 。この最後の5年間における反戦はベトナム戦争のみならず将来における戦争への反対も含んでおり、「忠実なヒッピー」による体制批判としての性格を強く持った。

さらに1970年代のアメリカの経済状況の悪化は、生活基盤が脆弱で他人に依存していたヒッピーたちにとって深刻な問題だった。特にベトナム戦争による国防支出の増大はアメリカの財政を危機に陥らせ、ドル=ショックを招いた。次いで、第4次中東戦争のためにオイル=ショックが起こった。国内へも深刻なインフレーションをもたらし、国民の実質所得は1970年代のあいだに5%減少した 。

ヒッピーの隆盛史でも示したように、ヒッピーの多くは親族やディガーズに衣食住などの生活基盤を頼っていたが、経済状況が悪化すると、寄付者もそれまで通りに支えることはできない。その結果ヒッピーも仕事に就くようになり、それまでの瞑想や芸術、社会運動にばかり時間を割く生活はできなくなった。オルタナティブな生活を確立できなかったヒッピーの生活基盤の脆弱さが、ムーブメント衰退を進めたのだった。

こういった社会変化を背景に、ヒッピーの理念は雪崩をおこしていく。特に1960年代後半は、ヒッピームーブメントへ関わる人が増えるにつれて「LOVE」の対義語ともいえる暴力が目立つようになっていった。その一つが帰還兵への暴力である。

たとえば「つば吐き掛け運動」では、ベトナム戦争からの帰還兵に対して反戦運動参加者の一部が集団的につばを吐きかけた。この戦争を嫌う気持ちの短絡的な表れで、愛のなんたるかを理解しないなんちゃってヒッピーによる行動だったと考えられる。また言葉の暴力として、アメリカ軍はベトナム兵だけでなく非武装の村人も襲ったことから「赤ん坊殺し」のレッテルが張られた。刑事ドラマでは帰還兵が疑われることも多く、彼らのイメージ悪化を助長した。これらの帰還兵に対する暴力は反戦運動と結びつき、花や音楽、劇や詩でアピールするヒッピーと暴力的な行為を行うなんちゃってヒッピーが混ざり合った。

そしてもう一つ、象徴的で決定的な出来事としてオルタモント・フリーコンサートも忘れてはいけない。1969年の12月、ローリング・ストーンズがツアーの最終公演として企画したイベントである。このコンサートではサンフランシスコのゴールデン・ゲート・パークを使おうとしたものの、市当局の許可が下りず、会場が決まったのは公演の2日前であった。また会場の使用料や映画の配給権については揉め事が起きた。警察の警備が整わず、ストーンズはバイク乗りの集団ヘルズ・エンジェルスを警備係に雇った。準備不足が明らかな中、イベントはツアーの最後を飾るために強行開催された

当日、集まった観客は30万人を超え、混沌のなかでは喧嘩が起こった。ステージは一時中断を繰り返して緊張感を高めながらも進んでいった。体を揺らして聞く人、ドラッグを使ったと思しき人、大衆の波に揉まれる人、彼らを舞台の端から見下ろすヘルズ・エンジェルス。

そしてローリング・ストーンズの演奏の途中、事件が起こった。ヘルズ・エンジェルスの一人が、銃を抜いたと思しき青年を刺し殺したのだ。青年の名前はジェームス・メレディス、のちにツアー・マネージャーが話したところによると反体制の勢いを止めるために政府とCIAが用意した悪質なドラッグを配っていたという 。

ヒッピームーブメントの意義の消失を象徴したこの事件は、後に「オルタモントの悲劇」と呼ばれた。たくさんの学生がサンフランシスコに集まったモンタレーから3年、ムーブメントが隆盛を極めたウッドストックからたった3か月のことだった。

「LOVE & PEACE」とスローガンを掲げ、商業主義に反対し、物と貨幣よりも「愛と平和」を大切にできる社会をつくろうとしたはずのヒッピーたちだが、運動によって人が増える中で彼らは理念を語り合わずに叫んだ。それがこうして内部崩壊を起こした。理想と実践が噛み合わなくなったムーブメントからは多くの担い手が去っていった。

それから商業主義化も衰退原因だ。特に大規模にヒッピーと商業主義が接触したのはロックだった。利権問題は最初の大規模なイベント、1967年のモンタレー・ポップ・フェスティバルから発生していた。出演したヒッピーミュージシャンの一人、カントリー・ジョー・マクドナルドは、フェスティバル直後に「モンタレーは僕らが描いてきたものすべてを奪ってしまった」と述べている。しかし20年後には、「コマーシャルな路線に乗ることにあの頃の僕、僕らは真っ向から反対していたけれど、ほんとうはセルアウトしたくてたまらなかったんだ」とも語った 。そこには有名になりたい気持ちや、「愛と平和」を追い続けることの限界が見えていたことが伺える。生活費という喫緊の問題が解決できないゆえの、理念のゆらぎであった。  

こうした流れの中でモンタレーと同じ1967年、「忠実なヒッピー」の一部は「ヒッピーの葬式」と題したイベントを開いた。用意した棺桶に当時ヒッピーの象徴であったビーズやバッジなどのアクセサリー類を投げ込み、それを担いで行進したのちに燃やした。理念を離れてしまったムーブメントを嘆き、その本質と関係のない部分を葬った。また、参加者の中には多くのヒッピーの生活を支えたディガーズのメンバーもいた。彼らの多くは山村や牧場に移ってコミューンでの自給自足生活に励んだ 。

またこのような商業主義との接触は、ミュージシャンのみならず無名の「忠実」でないヒッピーたちにとっても難しい問題であった。1970年代になると、生活のためにコミューンを出て既存社会のなかで仕事をしながら、仕事を選ぶことで理念を持ち続ける人もいた。主にデザイナーや物書きとしてフリーランスで働き、兵器生産などに関わる理念に反するようなクライアントは避けた。それは仕事を狭めることであり、生活基盤はやはり安定しなかったが仲間同士のつながりを持ちつつ生活していた。しかし、中には才覚があって稼げた者もおり、貨幣と理念の優先順位が崩れつつあるなか自己矛盾を深めていった。理念がぐらぐらとゆらいだ末、彼らは商業主義へ傾いていくのだった。

こうして「週末ヒッピー」を含む多くのヒッピーは、ムーブメントに失望して1970年前後に既存の社会に戻った。仕事を選んで独自の路線を作ったり、商業主義化していったりと、実践も理念の捉え方も多様化してまとまりを失った。よってヒッピームーブメントは衰退したのだった。

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24年2月追記
間借りカフェを始めました。
ヒッピーのお話もできたら嬉しいです。何卒。

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