ヒッピー隆盛史 ―瞑想・反戦・ロック―
前回、ヒッピーの理念について書いた。
ではこの哲学的な理想を、ヒッピーたちはどう実際の生活に反映させていったのだろうか。ここでは文献や映像に残る代表的な実践をいくつか取り上げる(ちなみにドラッグについて肯定的に書いた部分があるが、それはあくまでヒッピーの考えであって、私はやらないでおこうと思っている)。
まずは基本の生活についてだ。
彼らは欧米社会を嫌ったゆえに、その代わりとなる在り方を求めて東洋的な生活習慣を取り入れた。食事は玄米と野菜が中心。自然環境への配慮や自身の健康のため、また動物に痛みを与えないためなどの理由から菜食主義を選ぶ者もちらほら。
瞑想や音楽、詩作などに励み、企業へは就職をせず、収入も少なければ支出もあまりないような生活を好んだ。必要なときだけパートタイムの仕事をする者、自分の作ったアクセサリーや書いた本を売る者、そして農業をして自給自足をする者もいた。
しかし最初の一派を除けば、そのあとから増えていったヒッピーの多くは学生だったため、親族からの仕送りで生活した。また、ディガーズという奉仕団体も余剰を持つ人からの寄付によって必要な人へ衣食住を提供しており、大いにヒッピーを支えた 。経済成長至上主義を批判したヒッピーたちは、既存社会で収入を得る人々に頼っていた点で皮肉にも経済成長至上主義の繁栄を頼りにしていたのだ。ここに彼らのどうしようもない自己矛盾があった。
しかし食に困る心配がないことで、彼らは「愛と平和」の社会づくりを日常生活から模索できた。その実践の一つに瞑想がある。悟りを得るための行為で、方法はさまざまだった。たとえばマントラと呼ばれる呪文や、近年また注目されているヨーガ。そして前回紹介したドラッグ研究者のラム・ダスは、菜食や沈黙の行といった生活の一部を禁ずる修行をした。これらはヒンドゥー教の影響を受けている。
また前回も触れた合氣道など、武道全般も瞑想であるとされた。禅や悟りも“Zen”、“Satori”という言葉のまま使われて仏教的な瞑想も取り入れる者が増えた。この辺りにも東洋思想への傾倒が見られる。
しかしキリスト教についてもキリストの慈愛や赦しはヒッピーの「愛」と重なるところがあるとして、礼拝も瞑想と同様に扱った。他にもさまざまな宗教からも修行を学び、西洋的な精神世界の在り方も決して否定はしていない 。あるがままに様々な実践を受け入れるのもまた、瞑想的な実践のひとつであったと考えられる。
方法は実に多様であるが、共通項としては「いまとここ」への集中を高めることを目的とする点が挙げられる。規定の動作や行動をすることで、余計な思考を省いて頭の中を整理するのがこの瞑想の役割であった。
それから、“Instant Zen”と呼ばれたものがある。一般的にはLSDと呼ばれる、ヒッピーがもっともよく使った合成幻覚剤だ。自然由来の幻覚剤としては、麻から作られるマリファナも好まれた。これらは中毒性があるため濫用すると健康を害し社会的な問題を起こすこと、また不正取引が生じることなどから違法とされる国や地域が多いが、医療用や嗜好品として認めている場合もある 。
1960年代のアメリカにおいては、LSDが登場したばかりで規制の対象外であったもののマリファナは多くの州で違法であった。しかしヒッピーたちはこれらのドラッグを、自身をリラックスさせて感覚を敏感にさせるものとして瞑想の助けなどに用いた。使用法や使用時の精神状態によって、天にも昇るような「ハイ」の状態や意識が拡張された「トリップ」の状態になることもあれば、病的な妄想に取りつかれるパラノイアを起こす場合、「フリークアウト」といって通常の意識に戻れなくなる場合もあった。
しかし危険性がありながらもヒッピーたちはドラッグを肯定し、ドラッグはアメリカ中、そして世界中に広まっていった。それはドラッグが今まで自身の中に蓄積してきた価値観や社会規範を忘れさせて脳を原始的な状態にしてくれるものとして、悟りに近づく手段の一つだと考えたからである。
しかし一方で、この体験自体が瞑想だと考える人もおり、そのような人々はドラッグへの依存を強めていった。過剰摂取をして暴力的な行動に出る者や幻覚の末に自死を遂げる者もいたため既存社会によるドラッグへの批判も高まり、1966年には全米でLSDの製造と販売が、また多くの州では所持も違法となった 。
またヒッピーの一部は、関係性に縛られず同意した相手なら誰とでも性的関係を持つというフリー・ラブ(もしくはフリー・セックス)を始めた。この「フリー」は社会規範から解放されることを指し、彼らは性欲を恥ずべきものではないと考えてより原始的な自分の性欲と感性に従った。
また性的関係は男と女の2人で持つものとする社会規範も取り払われ、多数の男性と多数の女性、または同姓のみで関係を持つこともしばしば起こった。このような性の解放は、1960年に経口避妊薬が開発されたことも一つの要因となっており、人々は当時まだ非合法だった中絶というリスク、もしくは妊娠と出産という責任を取らずに性的関係を結ぶことができた。このような実践は新しい社会の在り方を若者に身を以て感じさせた反面、部分的に切り取って報じるメディアや理念なくしてサンフランシスコに来る若者も増加させた 。
また、フリー・ラブは同時期に興った女性解放運動とも交差している。当時の運動は19世紀末の法制度や職場における女性の権利獲得から、女性自身が持つ男性への従属意識の改革やより個人的な性の解放へと発展していた。また女性のみならず男性も男性らしさを壊すことを望み、女性の要求に応えるという役割からの解放を目指した 。
それから、ヒッピーが集まって生活した場はコミューンと呼ばれる。コミューンでは生活者どうしが助けあい、時に財産も共有しあって生活をした。これは血縁を軸に構成されて父親を権威とした既存の家族観への挑戦と見ることができる。
またカトリーン・キンケイド(1973)の記録によると、たいていのコミューンは以下の4つに分類される 。1つ目は政治的課題に取り組むために集まった「政治的コミューン」で、主に都市部に作られた。彼らはコミューン自体の存続にこだわりがなく、共同生活によって生活費を浮かすことや共鳴できる雰囲気を重視した。2つ目はユートピア思想を継ぐ「古典的コミューン」で、ここでは自らの理想の生活の実現を目指して計画的に生活共同体を設計することが中心であった。またそれによって社会の模範になろうという意図のある場合も多い。3つ目の「宗教的コミューン」は、強力な指導者を求めて人が集まって形成されたものである。魂や意識の在り方に議論の重点が置かれ、独自の儀式などを持つ神秘的集団もここに含まれる。そして最後は「家族としてのコミューン」で、その目的は純粋な安らぎである。多くは郊外に作られ、自給自足の生活をしながら他者との関わりを最小限として生活した。
4つの分類に当てはまらないコミューンや複数にまたがるコミューンもあるが、多くのコミューンの目的はこのようなものであった。またキンケイドは、いずれのコミューンにおいても人々が求めるのは「孤独でなくなることの夢」であるとし、「どのような理由であれ、人びとがコンミューンにひかれるその根底には、気の合う仲間あるいは親密で暖かみのある集団との出会いの願望があるのであり、個人にとってコミューンに来たことが良かったか悪かったかは、愛の対象を見つけることができたか否かにかかっている場合が多い。」 と述べる。つまるところ「さみしいから一緒に暮らそう」ということだ。社会に反発して尖ろうと人のぬくもりは恋しい。反抗期の青少年を思い浮かべれば想像ずるに難くない。
しかし、コミューンを作ろうとした者も含めてヒッピーの大半は白人中流階級の出身であったことから農業経験者はほとんどおらず、自給自足をする技術をもっていなかった。そこで彼らを支えたのが“Whole Earth Catalog”である。当時では画期的な通信販売雑誌で、オルタナティブな生活に必要な商品と情報が並んでいて商品は申込用紙を出して買うことができた。自給自足の生活に必要な道具や本が安価に手に入れられるとあって、この雑誌はベストセラーになった。
ここでヒッピーと物や貨幣との関係について補足をすると、前述の通りヒッピーはそういう物質的な豊かさを疎んだが、それは物や貨幣自体を疎んだのではなく、それらを最重要とする社会の価値基準を疎んだいうことである。それらはあくまで道具であり、ヒッピーが最も大切にした「愛と平和」を実現するためにも使える。ゆえにヒッピーは物質を批判したのではなく物質主義を批判したということを再確認しておく。
そして、このようなヒッピーの生活は既存社会を変えようとしたわけではない。オルタナティブな生活の構築、つまり既存の社会とは違う生き方の選択肢を作り上げようとする実践だった。そして実際にアメリカ国民の生活にオルタナティブな選択肢をもたらした。
たとえば1964年からジョンソン大統領が取り組んだ「貧困との戦い」は基準として定めた貧困線を約1割の人が越えられなかったため失敗とする見方が一般的であるが、一方で1969年には「超完全雇用」といわれる状態が実現したのも事実である 。この理由を考えるとき、ヒッピーの存在を無視することはできない。
完全雇用とは働く意思と能力のある人が全員仕事についている状態を指す。つまり「働きたいけど働けない」人がいない状態だ。ということは、雇用が増えずとも「働きたい」と思う人が減れば完全雇用に近づく。そしてこの時代はヒッピーになるという選択肢が生まれて前述のディガーズのような奉仕団体も存在し、働かなくても生きていけるオルタナティブな生活が実現した。この二つを組み合わせると「ヒッピーとなった人々が働くことを希望しなかったゆえに失業率が下がった」と考えることができる。気がする。
この証明は卒論でやりきれなかったので、社会学をちゃんとできるようになったらやりたいところ(くやぴい)
しかし農業経験のない集団がカタログや指南書を頼りにして充分な食料をつくりだせたのかは怪しい。というかできていないから、経済が不安定に転じたときにヒッピームーブメントが衰退へと向かったのだ。やっぱりオルタナティブを作り出すのは難しいことである。
さて次にヒッピーの運動を大衆的実践について見てみよう。取り上げるのはベトナム反戦運動、人間回復運動、ロック。一般的にヒッピーといってイメージするのはこの辺りじゃないだろうか。先駆けとなる学生運動から遡っていこう。
1960年に第1回会合を行った「民主社会を求める学生同盟(SDS)」は、民主主義の徹底を目的として生活に関わる政治的決断には市民が議論と決定に参加すべきだとした。そしてこのとき議題として想定されたのは、公民権運動と冷戦および核爆弾に反対する平和運動であった。
彼らの運動は全米に広がり、1965年には初めて全国規模のベトナム戦争反対デモを実施して2万人を動員した 。また、大学や高校では「ティーチ・イン」と呼ばれる戦争に関する徹底討論が行われた。学生たちは教授とともに自分が駆り出されるかもしれないベトナム戦争についてその意義を語りあい、大義の不在に気付いて、失望した。「フリー・スピーチ運動」ではそのような気付きが公共の場で語られるようになり、さらに「シット・イン」と呼ばれる座り込みをはじめとして、経済体制の歯車の生き方を脱しようとした「人間性回復運動」なども行われた。集団的な瞑想だった。
そして反戦が最高潮に達したのは1967年である。首都ワシントンD.C.でのデモ「ペンタゴン大行進」は、10万人を超える参加者が国防総省、通称ペンタゴンに向かって行進した。シュプレヒコールを挙げて、ある者はバンド演奏を、ある者は悪魔祓いの儀式を。警察隊や機動隊も出動し緊張した雰囲気が漂う。
そのとき、象徴的な出来事が起きた。
花で着飾ったデモ隊の一人が自分にライフルを向ける機動隊の一人に近づいて、その銃口に一輪のバラを挿したのである。非暴力、反戦、愛と平和。全てがその一瞬に詰まっていた。
全国誌『ライフ』の記者が捉えたその瞬間は「フラワー・パワー」と題され、世界中の人々の心に気付きを促すこととなる。また花を平和の象徴とした若者は「フラワー・チルドレン」と呼ばれるようになった。
また、これらの運動と並行して徴兵の対象年齢でありながら信条のためにそれを拒否する良心的兵役拒否も増えている。たとえばロックバンド「ビーチ・ボーイズ」のカール・ウィルソンは兵役を拒否したことで起訴されたが、4万ドルの保釈金を払ってロンドンでのツアーに参加した。また保釈金が払えない者は、カナダやスウェーデンをはじめとする他国に移り住んだ。
このような人々の影響もあって反戦運動は世界中に広がる。1967年にはイギリスの哲学者ラッセルやフランスのサルトルらを中心としてアメリカ合衆国を裁く国際戦争犯罪法廷を開催、ロンドンのタイムズ紙も70名の著名人の署名とともに反戦の全面広告を出した 。資本主義のため、つまり物と貨幣の豊かさのためにベトナム戦争に邁進する大人たちへ、国籍を問わず多くの人々が心からの反対を表明したのだ。
こうしてヒッピーたちを中心とした反戦運動は社会に変化を生んだ。実際にベトナム戦争が終わるまでにはこの運動の盛り上がりから数年かかるが、運動が戦争を主導する人々に影響を与えたのは確かである。それについてはまた次回に述べる。
そうそう、先ほど生活の実践は社会を変えるためではなく、オルタナティブを構築するためだったと述べた。しかし反戦などの運動は社会を変えようという試みである。社会のなかでオルタナティブの構築を阻む要因、そういう社会の一部分を変えようとする実践だったのだ。
ヒッピーはよく、世捨て人とか社会の脱落者のような見方をされる。しかし本来はこうして堅実に新しい社会をつくろうとした人々なのである。
そして反戦とともに盛り上がったのが音楽だった。とりわけロックは人間の感情を強いリズムに乗せたものが多く、ビート時代から好まれていた黒人音楽のジャズの系譜にある。演奏者と観客が対等な関係でアイコンタクトを取りながら楽しむのも、この系譜ゆえの特徴といえる。ヒッピーたちがロックを好んだのは、黒人音楽を敬愛した白人たちの思想を汲み、また社会を否定するのではなくオルタナティブを作り上げることを目的としたからだった。彼らは自らの打ちのめされた気持ちやドラッグの経験、そして夢や理念を歌った。
また1967年のモンタレー・ポップ・フェスティバルを皮切りとして、ジャズやフォークに倣ったロックのフェスティバルも行われた。スコット・マッケンジーが歌った「花のサンフランシスコ」(原題“Be Sure To Wear Flowers In Your Hair”)は最初のフェスティバルの直前に爆発的なヒットとなった曲で、非公式ながらテーマソングの役割を果たしてこの大規模化のきっかけとなっている。以下のような歌いだしで始まる曲だ。
花を挿すことは、同年のペンタゴン大行進におけるフラワー・パワーを指す。あなたもフラワー・チルドレンにならないかと誘っているのだ。この曲は若者を中心に多くの人へサンフランシスコの空気を届け、そしてモンタレーへと呼び込んだ。
さらに1969年8月には「愛と平和と音楽の3日間」と称されるウッドストック・フェスティバルが開催された。グレイトフル・テッドやザ・フー、ジャニス・ジョプリン、ジミ・ヘンドリックスなど国内外のトップスターたちが約60時間にわたって入れ替わり立ち代わり演奏し、飛び跳ねて熱狂する者も寝転んで聞く者もいた。会場はニューヨークにある600エーカーの農場で、40万以上の人が集まったといわれるがチケットを持たない人々も押し寄せて途中から無料開放となったため正確な数は分からない。司会のジョン・モリスは無料開放を宣言した際、運営者が赤字を負っても音楽を楽しんでほしいと願っていることを伝えた。そしてこう語った。
こうしてウッドストック・フェスティバルは大規模となっても奏者と観客がともに音楽を楽しむ姿勢は変わらず、ドラッグやフリー・ラブも手伝って人々は一体化した。既存のアメリカ社会とは違う新しい自分たちの社会だとして「ウッドストック・ネイション」という言葉も生まれた。ウッドストック・フェスティバルは、オルタナティブな生き方を目指すヒッピーたちの象徴的な出来事として、若者の熱気を凝縮させた3日間だったのだ 。
これらの運動は参加者を一体化させた一方で、ヒッピーにとっての理念の捉え方を多様化させた。繰り返すが、元来の理念は経済至上主義の物と貨幣を最優先とする社会への反発だ。しかし運動によって参加しはじめたヒッピーの大部分は、この運動をベトナム戦争への反戦として捉えていた。つまり戦争の根本的原因にはあまり目を向けていなかったのである。
そこで経済至上主義に反発する元来のヒッピーたちは「忠実なヒッピー(True Hippy)」を自称しはじめた。自分たちを後発者から差別化するビート・ジェネレーション時代からの伝統、脱皮の始まりである。
また生活基盤は既存の社会におきながら「愛と平和」を理解してベトナム戦争への反戦やロック・フェスティバルを中心に参加した者は、週末の運動にのみ参加するという意味で「週末ヒッピー(Weekend Hippy)」と呼ばれた。彼らの多くは学生であり、運動においてたいへん意欲的でヒッピームーブメントの拡大に多大に寄与した。しかし自身の徴兵回避など目前の目標のみに焦点を当てており、ベトナム戦争への反対として「愛と平和」を理解していたため生活における実践には積極的に取り組まない者もいた。
そして「忠実なヒッピー」がスクエアを批判しながらもあくまでオルタナティブな選択肢の構築を目指していたのに対し、「週末ヒッピー」はベトナム戦争への反対を中心として体制に変化を与えることも目指していたことは特徴的な違いである。ただしすべてのヒッピーがこれらのどちらかに分類できるというものではなく、実践の在り方は多様である。
またこれらのヒッピーの間に明確な境界は見られず、個人の中にも時間による変化や実践ごとの参加度合に差異がある。しかし「忠実なヒッピー」が自分たちを差別化しようとした点において、ヒッピーどうしの間には溝があったと考えられる。この溝は次に述べるムーブメントの展開によって、さらに深まっていく。
また、運動には理念を理解しない人々も参加していた。特にロックやドラッグ、フリー・ラブは気軽にやってくる若者も多かった。彼らの中には実践から理念を理解する者もいただろうが、理念を取り込まないままの者もいた。こうして理念追究の深度に差をつくったのがヒッピーの運動であった。
つづく
ーーーーー
24年2月追記
間借りカフェを始めました。
ヒッピーのお話もできたら嬉しいです。何卒。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?