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【雑談】韃靼人の足掻き

先日、機会があって生まれて初めて「から揚げの天才」のからたま弁当(唐揚げと卵焼き)を食べた。
唐揚げよりも卵焼きが美味しい異常事態に頭が崩壊した。
お出汁が効いているのがいいんだよね。

アイドリングはここまでにして、大きく話を変えてみる。


以前サク来が投稿した「スピーカー応援の是非について」について小規模ではあるが、色々と反響をいただいた。
賛否共に意義深いもので、中には僕の考えにはなかった全く新しい視点・解釈ものもあり、大変意義深いものだったと振り返る。

元々この記事は自己批判としての側面が強かった。
スピーカー応援はどうしても単調なものになりがちであり、周りの隊員はそのマンネリ化を防ぐべく様々なアプローチより応援を行うべく隊長に進言したが、隊長はそれを却下し、以前通りのスタイルに固執した。
これは彼なりの正解を求めていたのかもしれないが、ホームの応援がビジターより盛り上がりに欠けているのは明らかなものだった。
特に、鳴り物解禁後にもこのスタイルを貫き通したのには、サク来自身戸惑いを覚えた。
流れ作業を行うことで生まれるシナジーや球場の一体感があったのか、サク来には予想がつかないが、zonoさん自身に大きな考えがあったのだろうか。
まあ、そんなに大きかったら途中で蒸発するはずがない。
そんな環境を作ってしまったことについては反省する。

かくして徒然と書くことになったのだが、まず何から考えるべきかとなった時に、コロナ禍と現在における応援の制限の変化ではないかと考えた。
21年に始動したサラマン隊は、コロナ禍以前の応援について十分な知識と技量を持っているとは言えなかった。
実際、サラマン隊発足日に創設メンバーのほとんどは応援のスタイルや流れ、基本すら知らなかった。

スピーカー応援についてサク来は「あくまでも応援の文化を絶やさせない一時的な措置」としか見ていなかった。
これはNPB応援団の2020年の応援事情を見た上で、本来の鳴り物の文化のバックボーンを踏まえた形式的な実践だと考えたからだ。
しかしここで独立リーグの特性を考えることができなかったため、考えに粗ができたと認識した。
応援団員数がただでさえ少ない中、少ない観客の声援をどう起こすか。
それについての考察がなされていなかった。

他の独立球団の中継やXで流れてくる応援風景を除いてみると、少ない人数を補うアイテムとして用いられている場面が見られた。
なんとかと鋏は使い用と言うが、自分が如何に物の見方が浅かったのかを知った。

視野が広いつもりでいても、それは自分の考えの中での話であるためたかが知れたものだった。
いろんな意見を頂く中で、自分の頭に無いものを取り入れる姿勢の重大さを学んだ。
そして、ただ取り入れるのではなく、的外れなものや話にならないものに割く時間をできるだけ減らして、新しいことを考える時間に費やす。

雨が強くなったと思えば、弱くなる、そんな7月最終日。

自室から送信。

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