動物倫理としての人倫

 これを読んでちょっと考えた。

 これはかなりわかりやすい「悪人」やと思うけど、「死別まで含めてエンタメ」みたいなひともいる。動物だけでなく、ひとを含むあらゆる事物にたいしてそういう姿勢のひともいる。
 わたしとしてはちょっとするとそういうのは「吐き気を催す邪悪」に思ってしまうけど、実際まじめに考えようと思うと難しい。

 カント的にはたぶん人格そのものを目的として尊重せよみたいなかんじやったと思うけど、われわれには何かあるものを単に人格ないし準人格として尊重するだけではない何かがある気がする。自然にたいする畏敬の念であったり、ものを大事にしようと思ったり、動物をそれ自体の生活環において評価(?)したり。そういうのをすべて「それじたいを目的として」扱おうとしても人間中心的なところがでてしまって、けっきょくそのもののためにならない、とか。

 尺度そのものが違う(かもしれない、よくわか、ない)ものの扱いの評価にあっては、「自己の満足のためにそれをすること」を悪く言うことの根拠はいまいちどこにもない気がする。「おまえ自分に酔いたいだけやろ」というのは人間的な批評であって、自分に酔った扱いを受ける当の対象にとってはそんなことよりもっと他に大事なことがあるかもしれない(「そんなことよりもっとほかに大事なことがあるかもしれない」という尺度は共通するとして)。
 このマンガでいえば、悪人っぽいこの母親がいなければネコはそもそもすぐ殺処分やったかもしれん。もしネコにとって「ともかくも命があること」が何より大事なんなら、母親の行いはいいことであったはずやろう。わたしがこのひとに抱く嫌悪感はそれとは別の尺度の話というだけで、このひとに何か大きな非があるわけではない。みたいな。

 ともあれ、何か言えること/できることがあるとしたら、やっぱり功利主義的な「自分の行いをみんながしたらどういう社会になるか」みたいな考えかたからやと思う。だから、そういう意味では、動物倫理と同じレベルで(少なくとも、同じ土台で)人間倫理を考えるような社会であるようにわたし自身が生きるべきなんかな、と思う。

 わたしなんかは短絡的にペットとして動物を飼うことじたいが悪のように思えてまうけど、少なくともちょっと前はそういう潮流でもあったらしいけど、じっさいよくわからない。まだまだ何もわからない。

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