流れにおいて承け、流れにおいて係っていく

 わたしは大学院にいたとき主にこういうようなことを考えてました。

 「文脈」はことばとしてはことば以外の文脈でつかわれることは少ないけど、指してるものごとじたいはことばよりはるかに広い。雰囲気とかも文脈。ことば的ニュアンスを消していくなら流れとか言ったほうがいいかもしれん。
 理解も発話も詩も、すべて人生そのものである流れ(文脈)を前提してる、そのなかにある。すべては流れにおいてある。流れにおいて承け、流れにおいて係っていく。

 「山田孝雄の言うところの喚体(句)」的なものを理解するにも、ことばを重くみるのをまずやめて、広い意味での文脈を考えるべきやと思う。「喚体(句)」であれ「陳述」であれ、それじたいは名前でしかない。多少議論に怪しくみえるとこがあろうと、そこにみられる「「心の作用」みたいにみんなが呼ぶ何か」はひとのもつ広い認知能力の実現の一端やと思う。それはふつうのことで、それをよりよく嚙み砕いてわかっていくのが大事。
(ちなみに体言止めというか日本語におけるいわゆる名詞文みたいなのが動詞文的ニュアンスをもつのは単に最後まで読まんとそれが名詞文なんかどうかわからん(しゃべってるひともあるていど好きにできる)だけやと思う。それが三上章の言う「が」の(というか格助詞の)本質みたいなもんなんやろけど。)

 このころは実現を形態においてみるっていうことにすごいこだわってた。いきなり理念の話をするのはクソやと思ってた。今も基本的な方針としてはそうあるべきやと思ってる(理念にまみれたマンガ評アニメ評書いててごめんなさい)。
 ただ、かんたんに言うとこの頃は「意味(価値)というわけのわからんもんがあって、形態というわりとわけのわかるもんがあって、なんかわけわからんけど意味(価値)は形態に付随してる」みたいな考えやった。まあチャーマーズのスーパーヴィーニエンスですわな。そこが今みると「うーん」ってかんじ。というか、やっと「うーん」がわかってきた。

 個々の文法現象(?)とか語用とかに興味があるのはいいけど、「ことば、この未知なるもの」そのものに興味をもつのは一切やめたほうがいいなとは思ってて、あるていどはそれを徹底してたとも思う。でもなんかどっかでまだことばを「すごいもん」にしてた、置いてた気がする、いま読み返すと。けっきょくそれは自分自信が嫌ってる俗流言語論とか俗流心身二元論とかとどうちがうんか。なんでせめてデネット的機能主義にいかんかったんか。

 けっきょくことばをいわばモナドの窓みたいなもんに置いてしまってるだけで、それがよくない。というか諸悪の根源やとすら思う。

 ひとをなんというか動物としてとらえ、ことばもなんというか動物的に考えるのが大事。すべて流れ(文脈でも間テクスト性でも構造でも空気でもなんでもいい)においてあって、流れにおいて承け、流れにおいて係っていく。
 どこにも窓やら特別な一点なんてもんはなく、ただすべてが人生そのものなんやということ(なんかハイデガーみたいやけど)。

 というふうに思うようになった、さいきん。ここ一年くらいで。
 だから、わたしが行動主義(とかハイデガーとかヴィトゲンシュタインとか)から学んだと思ってたことももうここらで修正せなあかん。

 外がないんじゃなく、特別な一点とかほんとうのパースペクティブなんてもんがないんやということ(あるいは、バディウふうに言うなら、固有名としての空がジェネリックな真理がいわばあるんやということ?)。ほんとに言語の限界が世界の限界やと思うならそこに生きてそこで死ねばいい。

 『論考』がけっきょく言ってた(はずの)ことは「ことばにこだわるのをやめて「世界」すらからも離れてただ変化に生きよ」ってことなんじゃないかと思う。枠組みじたいになにか意味があると思ってしまうようなもろもろを捨て去るべきなんやと思う。大事なのはなんかが大事になるってことなんや。そこには流れがある。流れにおいてある。流れにおいて承け、流れにおいて係っていく。この世界はまさしくそうやってかたちづけられてるんやろう。

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