「最強の独我論(者)」というださい名前の説明

 きっかけはこれ。

 3分後のカップ麺を食えんかったり3分後の自分のためにカップ麺にお湯をそそいだりできんのはやばい。ということで、独我論をちゃんと考えることにした。そのために、ある種の遊びとして「最強の独我論者」はどう考え何を言うんやろう、と考えることにした。

 それをやるにあたって、まず「もっとも独我論者から遠い者」を考えることにした。
 そいつは「この世界にたくさんの意識(我)がある」と考え、そのさまをありありと思い浮かべることができ、また常にありありと思い浮かべている。あるいは、すくなくともそういう存在者が実際に存在すると考えている。

 これはこれでやばいし、やばいっていうのがただのあれやとしても、何よりの問題はこれも独我論のいちバージョンにみえるということ。「少なくともひとつ(私としての我)」なのか「たくさん(ありとあらゆる我)」なのかの違いでしかない。

 こう考えると、問題なのは「何が信じられる最小なのか」という考えかたの気がする。もっというと、「「そこを通ればオッケーとしてよいポイント」がある」という考えそのものがいちばんの根っこなのではないか(めんどくさいので以下そういうふうに考える者を「オッケーポイント主義者」とする(「基礎づけ主義」とすると大変なことになりそうなので避ける))。

 で、最強の独我論者はそういう「もっとも独我論者から遠い者」を含むオッケーポイント主義者がいるような場所からもっとも遠いものでなければならないような気がした(「最強」なので)。オッケーポイントなんてもんはない。それでも何もないのではない。

 最初の記事(https://note.com/saladhowl/n/n7f0e0ba637b5?magazine_key=m2f3c2e2a99e3)を経て、最強の独我論を「第二の自然でいう世界なるものが与えられていることがある、その機会すらないことはありえない」ということにした。第二の自然って言ってるけどミリカンの言うような直接知覚でも何でもいいと思う。

 ・・・で、当初の目論見とはちがって、最強の独我論はささやかであるかわりにマイルドで問題が少ないようにみえる。わたしとかバブバブの赤ちゃんとかそこらのネコとかカエルみたいなハイデガー的現存在未満のものも最強の独我論者(こっちは定義されてないけど)のようにみえる。最強の独我論者はカップ麺も食えそうやし、いつ誰が通るともしれん道に「この先底なし沼」のカンバンをたてることも、なんとなく手を上げることもできそうにみえる。

 ということを考えると最強の独我論は「最も強い独我論」(ぱっと思い浮かべるような独我論の最も強いバージョン)ではない。かといって、経緯から言って超独我論とかメタ独我論とか呼ぶのもなんかちがう。「超~」「メタ~」は「非~」を含意する。どっちかっていうとオッケーポイント主義がそれに近く思える。「最強の独我論」はださいけど結果的に独我論っぽさを残しつつ「これこそが独我論である」っていうはっきりした感じも非独我論感も出せてマシにみえる。
 というわけで最強の独我論というださい名前のままでおいとく。

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