風呂に入ると我をうしなう(個であること、我であること)

 この記事じたいはそんなに面白くないというかしょうもないというか。「LaMDAには友達も家族もいない」とかいう実在ベースの話をしてるあたりが特にしょうもなく感じる(雰囲気よんでユニコーンのことを好きでも何でもないのに「ユニコーンのことを考えているときが幸せ」とか言う人間と何がちがうんか)。
 そもそも意識とか心とか主体性とかというのは人間語なのでAIに対してそういう理解をしようとすることじたいが詮無いことの気がする。どんくらい賢いんか・どういう賢さをもってるんかっていうふうに考えたほうがまともやろうし、実際ほとんどのAIに携わってるひとはそういうふうに考えてるんやろけど。
 もっとそもそものことを言うと、じゃあたとえばわたしやあなたが意識を持たないゾンビやったとして何が変わるんですかって思う。けっきょく「すべての謎が湧き出る"意識"という不思議ポイントがあるのです」って言ってるだけなんじゃないんか。

 で、それはいいんやけど、ふと思ったのが、意識っていうのは「自分が自分であるということを知ってること」みたいなふうに言われたりもするけど、じゃあ「自分が個であるということ(一個の存在者であるということ)を知っていること」と「自分が我であるということ(意識主体・意志主体であるということ)を知っていること」とがどれくらい違うことなんやろう、ってこと。

 個であることと我であることとは(それこそ知性と意識とおなじくらいに)まったく違うもんやと思う。我でない個はもちろん、個でない我もあってもおかしくないやろう(「総意」とか「国民性」とかはそれに近い気がする)。
 何であれ何かを個であると認める時点で何らかの概念・悟性を密輸入してる気がするけど、自分を我であると認めるのは密輸入どころじゃなく論点先取な気がする。

 わたしは自分が我であることを知ってるけど、なんというかそれはいわば直接的にではないと思う。それは社会のなかで知ったことの気がする。

 じゃあ自分が個であることは? どうなんやろう。概念(能力)・悟性を持ってるならその時点でいわば直接的に知ってそうやけど、反省的な考えってもんは悟性からいわば直接的に出てくるもんではないやろう。

 自分というもんを認めることができるってことは単に表象能力の問題やと思う。それと自分という対象に辿りつくってこととでは結構な隔たりがある気がする。

 何かが我であることを認めるのじたいはそんな難しいことではないやろう。それは悟性からわりと直接でてきそう。

 「自分が何かである、自分が何かをする」っていう発想はどっからでてくるんやろう。ただ何かをすることからは出てこん気がする(「視野におけるいかなるものからも、それが眼によって見られていることは推論されない」)。そもそもそういう発想を持ち得ん、ただするだけ、ただそうあるだけのひともいる気がする。じゃあどっから出てくるんやろう。そういうのもぜんぶ社会みたいなもんなんかな。

 なんでこんなかんたんなこともわからんのやろう。『個体と主語』もこういう話ではなかった気がする。『存在の彼方へ』はなんかここらへんの話ではあるけどみようとしてるもんが違いすぎる。

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