文字について、私的言語(論)という名前について

 ことばと対象とは違う。口のなかでリンゴリンゴって言ってても口のなかのその「リンゴ」は食えん。

 絵と線・色とが違うっていうのもまあわかると思う。液晶で表示される絵はRGBなんかもしれんけど、「あなたのRGBすごくいいですね」なんて言うやつはまずえん。もちろん「タッチ」みたいにもとから絵・線(・色)が重なってるとこはあるにせよ。

 おんなじように、語と文字・音声っていうのも別のものやけど、なぜかこれはまぜこぜにされてるのを割と見かける。「数えたら二文字だった」と「その二文字に心が囚われた」とで「文字」ということばの用法が違うということに気づかん、というか。
 (例外的に「字」という字は文字・語・対象がたまたま重なるけど、そういった文脈であえていっしょくたにされてるのは見たことがない気がする。)

 たとえば、おそらくあなたがエスペラント字幕付きのエスペラント動画をみるとき、あなたは文字を見、音声を聞いている。その意味はわからんと思う(エスペラントの勉強をしたんでない限り)。
 大ざっぱに言ってその「わけわからんけど文字・音声やということはわかる」というそれこそが文字であり音声であって、ふだんはその感覚(?)は忘れられてる。ほとんどの文字・音声はそれだけでは何も表象(意味)しない。使い古された言い回しやけど、たとえば活字の文字っていうのはあくまで白い紙の上の黒いシミでしかなく、音声っていうのは空気のふるえでしかない。
 おそらくあなたが日本語の文字を見、音声を聞くとき、あなたは文字を音声を通して語を見、聞いている。そこに文字音声があることを、ありていにいえば意識すらしない。

*****

 わたしは言語ということばを基本的に使わない。言語とか言ってて実際に他でもなく言語が問題になってることはほとんどない気がする。言語という語にはどこかしら「10進法」的論点先取があると思う。

 私的言語論ってあるけど、あそこで言われてる「言語」っていうのはなんかもう模糊としててわけがわからん。「私的言語論」っていったときの「言語」というのは記号としての語の体系(いわゆるシニフィアンシニフィエの結びつき・・・・のうち、特にシニフィエの側)のことやと思うけど。
 ヴィトゲンシュタイン自身も気付いているように、シニフィアンの私的な使い方は議論の余地なくありうる。ヴィトゲンシュタインが言いたいのは言語が私的でありうるっていう発想がそもそもおかしいっていうことやろで、あそこで言われているのはいわゆる言語の恣意性の話ではなく、言ってしまえば(体系として分節されてる限り)私的なシニフィエというものがありえんってことやと思う。

 んで、じゃあそれあんま言語そのものは関係ないんじゃないか、とわたしは思ってしまう。まあわれわれにとってそれが言語以外のかたちで想像しづらいってのはもちろんわかるけど、結果的に「言語」ってことばを使ったせいでなんか言語なるもんがすごい特別なもんのように思われてしまってると思う。

 シニフィエそのものも、シニフィエとシニフィアンとの結びつきも、それじたいでは言語の必要十分条件ではない。それは音声言語でも文字言語でも(手話でも点字でも絵でも)ない何かで達成できる(実際にわれわれにそれが可能かどうかは関係なく)。とすればそれは言語の話ではなくて、あくまでシニフィエと記号体系の話でしかない(もしかすると記号体系の話ですらないかもしれない)。
 たとえば音階やリズムそのものが体系的な意味を持ち、それを表象として利用する文化がありうる(実際われわれの文化のなかにあるていどそういう要素はあると思う)。言語を持たずに音階リズムの表象体系を持つ文化やったら、私的音階論とか私的リズム論"に相当するような呼び方"をしてるはずやろと思う。それも言語(語)やって言いたいならどうぞご勝手にとしか言いようがない。

 私的言語論における「言語」という語の使いかたにはなんというか「10進法」めいた論点先取がある。なん進法を使ってるひとも、自分が使ってるのは10進法やと思ってる。なん進法を使ってようが、ケタが変わったあとは常に"10"なので。それはヴィトゲンシュタインや哲学者の問題ではなく、言語ということばの問題やと思う。そこにある特別な何かに言語という名前を使ってしまったことで、「そこに特別な何かがある」ということが「言語というものが特別である」って話にすりかわってる気がする。それを言語って呼びたいのはただの気分でしかないのに、言語ということばはそれを覆い隠す。

 けっきょく言語なるものが本質的な問題に思えるのも語を文字と取り違えてるのとおんなじような話やと思う。まあ「それ言語の問題じゃないでしょ」って言ってただしたところで大してなんも変わらん気はするけど、なんかどうも誤謬があるような気がしてならん。言語なるものを可能にしている何かの話やろ、って。その何かっていうのは少なくとも言語ゲームだけではない(語用論的推意とかも言語ゲームに含めたいならそれこそお好きにどうぞとしか言えん)。

 こういうのはもうどうしようもない。でもまあ「言語」みたいに「ちゃんとしてます」みたいな顔してちゃんとしてないやつこそ警戒し遠ざけるべきやと思う。みんなわけのわからんもんをとりあえず「言語」って言ってるのに、なぜか「言語」はちゃんとしてまーすみたいな顔して、みんな自分で「言語」にだまされてる。わからんのやったら最初から「ちゃんとしてません」って顔に書いとくべきやと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?