方言筆者(ことばに自分を売り渡すな、ということ)

 わたしはあまり方言を恥じていない(見りゃわかりそうやけど)。ほんとうはちゃんとした文章かくときにも「~だ」とか「~ない」(助動詞のほう)とか使いたくない。妥協として「~だ」だけは使わんようにしてるけど。「~ない」をやめると「かもしれぬ」とか言いだしてなんかとんでもないふうな文章になってしまうので。

 いわゆる「言文一致(体)」「口語(文)」みたいなもんにはかなり思うところがあって、いつかなんか書くかもしれんし書かんかもしれん。
 わたしは、わたしが方言っぽく文章を書くのは、「方言書きことば」みたいなもんを作ることで「ちゃんと自分のことばで考えるとこ」みたいなもんを作ることを目指してる、そういうのを目指してのこと。

書きことば/話しことばっていう対にするのもあんま好きじゃないけど、なんかこういうようなこと

 方言にピンと来んようないわゆる東京方言というか首都圏語を話すひとでも、漢語がどっか借りもんのような気がして馴染まんひとはいると思う。わたしはなるべくなら和語(ほんとは「やまとことば」って言いたいけどなんかうさんくさい右翼っぽくなるので和語と言う)を使って考えたい。でないとけっきょく考えそのものが腑に落ちん身に沁みん気がして。

 わたしにとっては共通語というかそこらのふつうの書きことばも同じ。というか考えってもん一般についてそう。どっかで腑に落ちん身に沁みんことば・考えを、腑に落とし身に沁ませるためのことば。それがここで書いてるようなことば。
 けっきょく文体の創出っていうのは考えかたの創出であってつまるところbehaviorなんやってな。綴方運動じたいはあれやけど、まあけっきょくそういうことなんや。

 わたしは言語的アイデンティティなんかいらんとは思うけど、方言らしい方言の話者がふつうのことば・借りもんのことばに腑に落ちん身に沁みんもんを感じやすいならそれはなんというかチャンスではあると思う。まあそういうチャンスもクライシスもなしに最初からスパっとできればそれがいちばんではあるけど。

 郷に入っては郷に従えと思うし、ちゃんとした(というか、方言が求められてない)場で方言になってしまうのはどうなんやと思うけど(じっさい加藤先生もふつうの授業を方言でやったりはせんかったし)、そうでないところでまで自分をわざわざ縛ることはない。ただ、好きなようにいるためにはなかなかどうして好きなようにするためのがんばりが必要なんやってな。わたしにとってはこういう文章がそのひとつ。


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 髪そめてないほうが若くみえるんじゃないかと思う。

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