オールマインドはポンコツなのか、延長された表現型、ほか
オールマインド、ポンコツ扱いが流行ってる・・・というか定着してるけど、どうなんやろうと思ってる。
そもそも「我々がオールマインドやと思ってるあの声」とか「ケイト・マークソン」とかはオールマインドというシステムのインターフェースというかトークンというかそういうもんの気がする。意志とか志向(性)とかを持ったAI的なものではあると思うけど、統一された単一人格(?)とみなすのはどうなんやろう。
siriやらアレクサやらをアップル・アマゾンと呼んだり思ったりはせんわけで、「あの声」はゲーム中では「オールマインド」扱いやけどsiriアレクサに近いもんなんかなーと思ったり。だからオールマインド(というシステムそのもの?)はポンコツとかどうとか言えるたぐいの存在者ではない気もする。
ちょっと似た話ではあるけど、オールマインドとかエアとかは「人」の理解が人とは違うかもしれんな、と思ってる。そもそも「人」以外の生き物を知らんかもしれん。「闘争こそが人の可能性」みたいなこと言ってたけど、これは「生存競争こそが生き物の進化の本質」と置きかえればいまの我々の常識ともそうズレるものではない。人以外の生き物を知らん(かもしれん)オールマインドとかエアとかも実はそういういまの我々の常識と同じような地点にいたんかもしれんな、と思う。
あと、もうちょっと言うと、オールマインドとかエアとか(以下「AA」)はそもそも「かたち」の理解・把握のしかたが人と違うってことも考えられる。
延長された表現型ってもんがある。詳しくはググってください。典型的にはアリやらハチやらの巣とか動物の求愛ダンスとかそういうものを思い浮かべればいいと思う。
で、人はたとえば身体といわゆる延長された表現型とを区別するのが当たり前になってる。あなたがハチやったとして、自分の羽と自分たちが作って住んでる巣とはいわば種類が違うもんやということはなんとなく直感的に思うところやと思う。
ただ、AAがこの区別を当たり前に持ってるかは怪しいと思う。AAは人みたいに生き物としての身体を持ってない。これはちょっと想像するのも難しいけど、身体を持たない知性が身体と延長された表現型とを人間みたいに区別できるかっていうのは怪しい気がするんやってな。
こっからさらに飛躍すると、AAはMTとかACとかの類いも「人」と思っててもおかしくないのではないか?と思う。少なくとも人の一部と思ってる、というか。そこらへんを区別してるとしても人とおなじような感覚での区別はしてないかもな、と思う。
そうすると、「賽は投げられた」エンドのニュアンスがちょっとわかる(あるいは、変わる)ような気がする。詳細はめんどくさいしわたしもよくわかってないので措くとして。あれはエアが純粋に可能性を追い求めて行き着いた先やったんやろと思う。
エアが人の心の機微がわからない描写はストーリー中でもちょこちょこあって、その「ちょこちょこ」が実は致命的やったというのがあのエンディングの悲劇部分なんかなーと。
で、最後のあの「メインシステム 戦闘モード 起動」というあまりにもよく聞いたセリフ。
これは結局「闘争こそが人の可能性」=「生存競争こそが生き物の進化の本質」ってことなんやろと思う。
だからこそ、共に進化しましょうっていうのがエアの思いなんやろなーと。そんでまた、恐ろしいことに(?)ここで言われてること自体は我々の常識とほとんど重なってる。ただそこに人間的な視点がないだけで。
分岐と捉えかたによってハッピーエンドバッドエンドいろいろあるやろけど、物語の裏にはこういう「一見フレンドリーな面もあるエア&オールマインドが、じつは根本的に人とは異なる」っていう筋が通ってる気がする。
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