魔法・食・宇宙(『ダンジョン飯』読んだ)

 ダンジョン飯、まめぞうがえらくはまって、コミックスを買った。わたしも読んだ。2回。非常によかったです。

 人間ドラマ的なところもしっかりしててもちろんいいんやけど、なんというか、そこがキモではない気もする。このマンガ、「人間ドラマもいいよね・大事ですよね」とは言ってるけど、人間ドラマそのものはそこまで大事ではない気がする。そのへんがライオス-マルシル的やなというか。

 これは、ひとつのエコロジーというか、エコロジカルシステムというか、そういうののマンガ。文字どおりの世界観、世界とはこういうものなんやという考えにふれるマンガ。

 「食うか食われるか そこには上も下もなく ただひたすらに食は生の特権であった」という前提、そのもとでの「他の生物に消化された肉は自己を失う」というルールはこのマンガのルールそのものであり、つまり「世界観」ということばに言うところの「世界」のルールでもある。
 だからライオスの「俺の考えたカッコイイモンスター」は「欲望を消化・・することができる」。食べるだけなら「生」きているものであればなんでもそれをなすことができるが、何か「消化」して自己を失わせ糧とすることはそれ以上の何かを持つものでなければできない。人間や動植物・微生物にも当たり前にそれ・・はあり、悪魔にはそれ・・はない。それ・・こそが神秘であり、そしてその神秘は神秘として祀られることさえない。
 何かを循環させる何か・・があり、それ・・は食を通して何かを循環させる。

 魔法・魔物を土台として、「本質的には世界や人間に興味がないライオス」と「俗っぽい人間ドラマに目がなく、世界の裏の理たる魔術からひとの寿命を書き換え好きなひとと永く時を過ごそうとするマルシル」とはこのマンガの骨子やと思う。ライオスのおどろおどろしさ・空っぽさ、マルシルの俗っぽさ・のっぴきならなさ、それが別のキャラクターとしてひとつのマンガの骨子になってることがこのマンガのキモというか。
 なんでもいい・どうでもいいけど、でもそれがそこにあるということはやっぱり大事で、ありがたくて、失いたくない。そういう気もちがこのマンガの骨子にあると思う。それがある意味では食の世界観のなか・・にあり、ある意味では食の世界観のそと・・にあるっていう冷徹さがこのマンガの魅力でもある。われわれの気もちみたいなもんは世界の摂理とは無関係やけど、でもほかならぬこの世界の摂理のなかで生きているものである、っていう。それは「無上」とか「永遠」とかのむなしさ(なさ)を知ることでもある。

 個人的にはマルシルの「生き物は魔物でもかわいくあってほしい」とか「どんな種族も千年くらい生きてほしい」みたいな気もちはもっとすくわれてもいいかなと思った。たぶんこのマンガ的には「必然性があって、そのおかげで生き残ってる」みたいなことなんやろけど、わたしとしては「なんの根拠もなくただそうなって、それがただ生き残ってる」っていうのもありやと思いたい。そういう可能性を無知に無邪気に広げることがあってもいいんじゃないかとわたしは思ってしまう。それこそがなんじゃないかと。でもそれも分を知りなさいよって話でもある気はするので、まあおいといて。

 どうでもいいけど(ほんとにどうでもいいけど)8巻のつららの折れ方が気になった。そうはならんやろ。どのへんの出身のひとなんやろ。

 アニメから入ったけど、アニメはアニメの演出で、マンガはちゃんとマンガのうまさがあって、よい。というかまあ世界観とキャラクターがしっかりしてるのでアニメ化しやすいんやろと思う。しらんけど。

 なんかちょっと攻殻機動隊を思い出した。エコロジーとむきあってそれをかたちにしてるという意味で。
 攻殻機動隊も士郎正宗のマンガベースでアニメ化しそうな雰囲気あるけど。わたしとしては、アニメ化じたいはわりとどうでもよくて。それをきっかけに公式の資料・いろんなひとの解説・解釈がでてくれればいいなと思う。ダンジョン飯は人気になったおかげでそういうのが豊富でいいなと思います。士郎正宗攻殻機動隊もそうなってほしい。

 とにかく、よかった。これは人生級のいいマンガな気がする。なんかを通して世界というもんを見ることができてる気がするもんはいいもんや。『ダンジョン飯』はまちがいなく世界をみることのできるマンガです。

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