最強の独我論230211
まめぞうを見てるとときどき「これがまめぞうなんか」「これはまめぞうなんかな」と思うような気分になることがある。
で、それはまめぞうではないと思う。わたしがふだん言うまめぞうは現象あるいは概念であってそのそれではない。
これは自分にかんしてもおなじやろう。自分を見ることはできる。手を見て、鏡で顔を見て。あるいは見る自分を感じることで自分性みたいなのをみることもできる。まめぞうも自分性も深海にいかんと見れん深海魚もおんなじやと思う。
そのとき究極の視点とか唯一の視点とかはない。ただみてるだけ。
それがそれであることを失う(それがなくなる)ことがある。モノが壊れたり、これがまめぞうなんかと思ったり、ふだんの自分のしゃべりかたがわからんよんなったり。そのとき、それはないということを知る。
論理とか法則とかは壊れたり失われたりすることがないように思えるけど、それはそれをそういうもんやと思ってるだけの気がする。それは破片とか「どこかにあるはずのふだんの自分のしゃべりかた」とかと何がちがうんか。
メタフィジカルなとこではそれであるところのものはすべて存在者なんやと思う。メタフィジカルなとこでは存在者でないものを直接とりあつかったりとかできん(メタフィジカルなとこのなかでは否定や存在を処理できず、いわば外延の置き場が外に必要になる)。
フィジカルなものの下支えのもとでメタフィジカルなとこがあって、メタフィジカルなとこで世界をかたちづくりあるいは色づけし、そうしてできた世界は超フィジカル原フィジカルなものとして扱われる。メタフィジカルなとこに「直接に」というものはなく、それは自然化された超フィジカル原フィジカルな世界にある。
意識・こころ・知のたぐいはフィジカルなものに触れてはいない。自然化された超フィジカル原フィジカルな世界がそのことを、フィジカルなものがあることを教える(あるいは、前提する)。メタフィジカルなとこの外というものがある。
ここにあるのは「そういうつくり」あるいは「そういう流れ」とメタフィジカルなとこでの存在者だけであって、それ以外のものっていうのはない。なんであれ何かを特別にするものは何もない。日々のやることのなかで何かが特別になるっていうことしかない。
ということがやっとわかった、ことばにできた。
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