宇宙的知性・宇宙的生命

 ひとは自分たちの持ってるような意識とか自分たちみたいな生命とかを特別なもんやと思ってる。と思う。でも「客観的には」というか・・・・とりあえず、どこかにいるかもしれない宇宙人的知性・宇宙人的生命にとっては、「人間(われわれのような地球人)目線で知性・意識にみえるかどうか」はおそらくどうでもいいことやろう。

 シミュレーション仮説みたいなのも同じような筋の悪さ・つまらなさを抱えてて、「我々の世界の外に」「我々に似た(我々に想像/理解可能な)」上位の存在があることを前提してる。いまの人間が思い浮かべられるような知性・人間が思い浮かべがちな段階構造みたいなものをあまりに当然に前提してる。

 宇宙人を求めてるかぎり、宇宙的知性宇宙的生命に出会うことはほとんど不可能なほどの困難であり続けると思う。

 「価値」を持たないとか、そもそも概念を持たないとか、主体ですらないとか、そういう何か。「外」にあるのでない、法則としての神、というか。

 そういうもんはありふれてる。わたしたちのなかにもあるし、わたしたちを一部としてもある。

 一人称的に特別なのは「自分は特別である」ってことやと思う。そういう特別さは(「客観的には」)世界に何も付け加えない。クオリアなしの世界を想像しうるように。
 「この宇宙に存在するのはわたしたちだけなのか?」っていう科学的にもみえるこの問いは「この世界に存在するのはわたしだけではないか?」というくだらないタイプの独我論と根が同じであるようにも思える。価値・・があるのはその問いとかそのこたえとかではない。

 背景みたいなもんはないし法則としての神もない。なんもない。ただわけもわからんなかでわけもわからずにいる。ある意味ではまさしくわたしこそが宇宙的知性そのものであり宇宙的生命そのものである。けっきょくのところ、超越的に橋渡しできるもんなんてなんもない。

 「橋」も「橋渡しするなにものか」もない。いくら川の向こう側をながめてても、そこは此岸でしかない。そして此岸において与えられてるものこそがまさしくすべて・・・である、ということ。

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