宮崎駿『君たちはどう生きるか』

 たとえば一枚の「意味ありげな絵」はひとが思い浮かべるような文脈をうまく使ってる。キャッチコピーとか「名ゼリフ」とかも同じ。直接指示する(あるいは、直接承ける)文脈なしに、ひとがまいにち生きてるなかで見ている使っているような文脈に訴えかけて、何かを伝える・思わせる。

 『君たちはどう生きるか』の絵・話・見せかたは、そういう「ふつうの当たり前の文脈」への目配せ・参照が多い。だから、絵のひとつひとつ、動きのひとつひとつ、構図のひとつひとつ、セリフのひとつひとつ、どこをとっても意味がある、わかる。うるさいくらいで、わからせられる。
 円熟通り越して棺桶に片足突っ込んだような宮崎駿の手癖がこだわりが哲学が思いがかたちになってる。すべてがいちいち訴えかける、思わせる。うるさい、疲れる。

 そのいちばんの根っこにある(ありそうな)思いのあまりにぼんやりしていること、あまりにはっきりしすぎていることに、ことばを失う。何も語れることが思い浮かばない。ただただ、その強さに打たれる。絞られて、立てなくなる。

 「君たちはどう生きるか」という問い。あるいは、そこで前提される「生きる」ということそのもの。それが、夢まぼろしと、思い出と、ふううのふだんの毎日、そこで目に耳にするありとあらゆるものごと、すべてに支えられ、またすべてを支えるそれこそが問いでありこたえであること。それを受けいれる心、そのあまりにはっきりとしていること、そのあまりにぼんやりとしていること、そのしたたかさ、そのはかなさ、そのずるさ、その愛おしさ、それがあまりにあたりまえであること、それがあたりまえに突きつけられること。

 ただただ、それに打たれる。打たれて、劇場を出る。

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