最強の独我論について(また最強の独我論者を考える)

 メイヤスー『有限性の後で』読んでる。第三章まで読んでて、はじめは思ってたよりマクダウェル『心と世界』とちがうように(しかも『有限性の後で』のほうが魅力的に)感じられたけど、またけっきょくおんなじように感じられてもきて、いまは『心と世界』のほうが進んでるように感じてきてる。そんでまた『論理哲学論考』がますます魅力的に思えてもきた。根っこさえとっかえてまえば『論理哲学論考』的世界観そのままでいけるんじゃないかと。概念主義・第二の自然と事実論性の原理をパクってくれば(支配されすぎて抜けだせんだけのような気もする)。電車で、そとをぼーっとじーっとみながら考えてた。

・ひとつ、ふたつ、・・・と数えることは「これ」「あれ」と言うことと同じ。数を適用することは視点依存的なこと。

・山を見るとき、木を見、葉を見ているかもしれないが、たとえば山の地表や枝は見ていないかもしれない(なくなれば気づくが)。
 階層・クラス・レベルの類は自然的な事物ではなくそれに依存してひとがつくったもの。宇宙人はひとが山を見るようにはそれをみないかもしれない。

・たとえば「中心があって、端にいくほど少ない」ということが「先がとがっている」というように感じられる。

・自然的事物においては機能が(ときに)かたちをつくり、かたちにひとが名をつける(木、とがった木、・・・)。

・車窓から流れゆく景色を見ているとき、季節の移り変わりを感じるとき、それは事物をみているのか、機能をしてかたちづけさせるところの法則をみているのか、記憶を再訪しているのか、現象をみているのか。そもそも、事物をみることはできるか、法則をみることはできるか。

・事物と法則とに質的なちがいはないのではないか。それらは本質的に異なるものではないのではないか。かたちの有無(みえやすさ)、二項関係においての「より上位・より下位」、相互包摂関係の差でしかないのではないか。機能が事物と法則とを橋渡しする。

・ところで機能とは何か。与えられたものごとにおいて何かを目指すということにおいてはたらく(はたらいている)ものごと。では万物に生気があり、万物に意図が目的があるか。

・「もの」と「こと」とに区別はあるか。少なくとも「ひとのなすもの」と「ひとのなすこと」とに区別はあるか。
 「祭り」はどうか。「道」はどうか。けっきょくは機能でしかないのではないか。ではそれを構成するひとつひとつをつくるひとは「祭り」「道」を意図しているか、その意図をなぞっているか。柱や地盤や出し物に意図はあるか。意図はどこまでいきわたっているか。

・そこではそれぞれの意図があまねくいきわたっている(と言うことがおそらく正しい)。

・存在しないという選択肢やオプションはない。「かたちづくられているか」(「いまはたらいているか」)しかない。存在者なしの存在。機能。

・私がほんとうに意識をすべて失っているのなら、そのとき私の意識は世界のどこにもない。誰かの「この者の意識」の表象も私の意識ではない。私がいても私の意識はない。風が吹いていないときにはその空気はあってもその風は世界のどこにもない。私が死んだあと私は世界のどこにもない。これが世界についての教えである。
 世界は第二の自然によって与えられている。私たちははじめから歴史のうえにいる。そこでは存在者に名が付けられる。機能はあらためて語られ、あるいは示される。そのとき、事物は意図に満ち満ちたものであるかにみえる。機能と意図と必然が世界を支配しているかにみえる。

・世界は論理的に不可能なものも含めあらゆる性質・あらゆる権能・あらゆる可能性を網羅している。私に世界がこのように与えられているのは(世界の限界は)論理・歴史・表象能力(概念能力・悟性)・感官の限界でしかない。それらのこと(たとえば明けの明星・宵の明星について、紫外線について)を他でもなくまさしく論理・歴史・表象能力・感官が教える。
 意図なるものはまったくはたらいていないかもしれない。疑いのもとで確信すること。

・独我論者は「私に世界がこう与えられている、それ以外に確かなことはない」と言う。
 最強の独我論者は「私に与えられているこの世界」が私にとって特権的であるということに疑いを向ける(倫理の土台)。「世界」なるもの、その全体が直接に知覚されることも表象されることもないことを知っている(天啓がない限り)。
 最強の独我論は「第二の自然でいう世界なるものが与えられていることがある、その機会すらないことはありえない」である。

・何であれ何かがあって、これが少なくともその一部であるかもしれないということ(「これ」がこうでなかった・なくなった、ということもまた知っている(想像可能である))。論理・歴史・表象能力・感官。

・最強の独我論者には、ひとから聞いたことも自分が見たことも同じくらい疑わしい。最強の独我論者は、整合するかぎりは(というより、多少整合せずとも)何でも受け容れる。おなじくらい疑わしいものはいったん受け容れる。何かがあるのは確かで、これがそれかもしれない。

・何かを信じるということは他のすべてを疑うこと。何かをあまり信じないということは他の何かを信じる余地があるということ。
 とりあえず。なんとなく。非懐疑論的な非超越論的な純粋で最強の独我論の行きつく先。

・私はたとえば私にとっての世界の裂け目などではない。何であれ何かがあって、これもまた少なくともその一部であるかもしれないということ。これもすべてもあるもないもおなじくひとつであるということ。
 懐疑論的手ごたえや超越論的な確かさをあきらめることなしには、とりあえず手を上げることも、なんとなく山を見ることもできない。
 私が手をあげれば私の手があがる。それが私ではないかもしれないとしても。私は山を見ている。けっきょくのところそのことが何なのかはわからずとも。

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